第3回 大人部部会レポ(前編)
悠です。
先日、第3回の大人部部会を開催しました。
ブログでレポートするのが初めてなので解説しますと、大人部部会は月に一度のペースで部員が集まり「性」について話題を共有する場です。
時事や映画・アートの話、イベントについてや、個人的な性体験まで、かなり赤裸々に語ります。
部員は常日頃からSNSツールLINEを通じて「性」についての情報交換をしており、部会ではLINEで話されたことをより深く掘り下げることもあります。
レポの前半では、話題のもとになったLINEの会話から、いくつか抜粋してみたいと思います。
渋家大人部LINEより
《登場人物》
Y(♀、SM好き、嗜虐フェチゆえの悩みを抱える)
N(♂、映画好き、ステレオタイプな男性像を押し付けられ疲労困憊中)
H(♀、学生、性愛と恋愛の不一致を自覚している)
E(♀、部員)
2015/05/12(火) 男性Nの憂鬱
N:なんか俺って本当、男であることに疲れてるのかもしれない。肉体的な話で。
女性に対する神秘性みたいなものや、逆に嫌悪感みたいなものも自覚してる範囲ではあんまりないんだけど、男に関してはネガティヴな印象が強い。だからフェミニスト名乗ってもいられるんだろうけど。
例えばガテン系バイトをすれば人より目立つし頼られるんだけど、一方でフランクな形での性の会話って男女ともに難しいんだよね、ここ(LINE上)でもない限り。多分肉体的なものが起因してるんだよね。SNS上という言語や文字情報のみの方が解放感を得られるのは肉体から距離を置けてるからだと思う。
・・・
N:わりと自分が勃起してる時に呪わしい気持ちになったりするんですよね。自分のちんこ全然好きじゃない。でかいのに憧れてる奴に会う度にわりと傷ついてるところはある。
Y: そうなんだ。
N:ちんこに性という意識が集中しすぎてるからね。本当は身振りや服装から思想まで男性という性は潜んでいるのに、ちんこという異形のものに集中する。理想のちんこなんてものは無いはずなのにどこかで理想のちんこを追い求めてるわけです、無意識的に。だから大きいのに憧れる人もいれば、大きいことがコンプレックスになる人もいる。
2015/06/08(月) ベクデルテスト、映画表現における男女の非対称性について
N :映画における性差を測る上でベクデルテストってのがあるんだけど
1.名前のある女性キャラが2人以上出てくる
2.その女性同士が会話をする
3.会話をしている内容が男の話以外である
ってのがある。
この3点をクリアしてるかどうかを、映画において性差をどう扱ってるかという基準にしてるところもあるみたい。もちろん、これらをクリアしてもジェンダーフルな映画もあるけどね。ちなみにベクデルテストの元ネタは漫画。
Y:それで言ったら『NINE』は女性の4ないし5人の名前は特定だけど、男性は2名ぐらいだ
N:(元ネタになった漫画の画像、以下漫画内での吹き出し引用)
「ねえ映画見ない?」
「んー、まあ良いけど、私映画見る時にルールを決めてるんだよね。
1.名前のある女性キャラが2人以上出てくる
2.その女性同士が会話をする
3.会話をしている内容が男の話以外である
この3つ。」
「変なの。でも面白いね。ちなみにそれを満たしてた映画って何?」
「『エイリアン』。女2人がモンスターの話してんの。」
Y:ウケるねwwよりによってエイリアンなのかよww
N:ね。
でも確かにそういう必然性のあるシーン考えると、女性の背負う社会的背景をちゃんと作り手が設定出来てないと無理なんだよね。良いギャグ。
Y:うんうん。
N:例えば学校が舞台で女生徒でそれをやるなら、友達同士でどういう関係性か、そしてその女生徒と友達は、それぞれどんな性格でどんな趣味か、クラス内や学年内や部活内での立ち位置をきちんと考えなきゃいけない。
それで言うとバスケ部、あるいはサッカー部のキャプテンとかエースって記号的だよな。
・・・
Y:ねえ、単純な疑問なんだけど、映画業界で女性が占める割合ってどんなもんなの?
N:割合っていうのは?作り手で関わってる人?
Y:えーそうだな、監督の総数に対してとか
N:そうだねー。みんな雇用契約結んでるわけではないだろうから難しいけど、俺の体感だと2割には満たないんじゃないかな
Y:そかー。ベクドルテストもその数字と無関係ではないだろうね。
N:女性の若手監督が取り上げられるようになったのはここ最近の話。
俺がこの間観に行った浜野佐知監督が言ってたけど、最も多く商業作品での長編一般公開作品を持つ日本の女性監督の、本数記録は6本。
ベクデルテストは決して無関係ではないね。
言うてハリウッド映画で有色人種が主役の映画はまだまだ少数だし、アカデミー賞の女性監督初の受賞者は『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー。2009年受賞。以前として白人男性優位なのが映画界。ハリウッドのね。
Y:映画業界のジェンダー史、まとめてほしい!w
N:映画界、こと日本においてはジェンダーとかフェミニズムとか無視してきたからその手のやつはジェンダー研究の方では取り沙汰されるけど映画業界の中の人はほとんど無視してるんだよね。無視してないことないだろうけど、無視に近い扱い。
浜野佐知監督も女性として映画を撮る過酷さを書籍として出してたはず。
海外のフェミニズム映画批評読みたい~。
Y:Nさんまとめて~ww
N:日本で研究してる人と仲良くなれんかな…斎藤敦子さんとか鷲谷花さんとか…。
・・・
H:ベクデルテストのはなしおもしろい。
同性と異性以外の話題で喋る、という男性の間では当然のことがなぜか女性の間では映画において表現されないって不思議。
N:そうそう。実は少ない。
そういえば早稲田大学で幻燈っていう映画以前からあったプロジェクション文化のイベントに行ってきたんだけど、そこで当時の風刺画が素材として上映されてたのが、大学の前で女学生の制服を着た女性の顔が、口だけで出来ているという絵があったんだよね。
どういう意味かというと、女は学校へ通うと口ばっかり達者になるという意味の風刺画だったらしいんだけど、これって「女は黙ってるのがデフォ」みたいな価値観があるからそう見られるんじゃないかって思ったんだよね。
考えてみたら「寡黙」って言葉とかで指されるのはその多くが男性だよなあ。
社会によって定められた性規範によって言葉や文字が奪われてるのではないかと考えると、女性が思想とかに興味を持たなくはなってくるのかなと思った。
・・・
Y:今がどうとかじゃなくて、「女性への社会的圧力」と「思想業界」との関係性の話ね。
N:そうそう。女性脳とか女子力とかそう名指されるものの背景。
女は感情的で理論的ではない、みたいな話とか、そもそも理論的な女性というものを許してこなかった社会が先にあるのでは、という考え。ちなみに、感情的であることと理論的であることは決して両立し得ないものではないので、この指摘自体が理論的ではないことから言っても、俺は支持するに値しないと思っている。
よく感情的な女性を指して、結局女はそういう生き物だって話も出てくるけど、それもまだ社会から課されて自覚・無自覚問わず演じている役割から抜け出ていない可能性をぬぐい切れていないというのが現状だと思ってる。でなければ国家ごとに男女の就労状況が変わるわけがない。
つまり、何故そういう社会が形成されたのかってところにぶち当たるレベルにまでまだ日本は達していない。だからそれを探るためにもフェミニズムはもうちょい勢いがあって良いと思ってる。
それとは別に役割を演じていることで生まれる様々な事象には是非を問わず見極めていかなきゃなんないし、多分Yさんが興味あるのはその役割を演じているという現状で起きている事象だよね。
Y:そうだね。その中でどうエロスが生成されるのかに興味津々。
(私は)割と社会の「女性はこうあるべき」っていう圧力を回避しつつ生きてきたから、今はその圧力で新しい自己が生まれるのが面白い時期かな。
根本的には「女はこうあるべき」っていう価値観は、「女は」っていう語り口も、「~であるべき」っていう語り口も、どっちも糞食らえだと思ってる。
「女は~だ」も「~すべきだ」も絶対的なものなんてないけど、その相対性が他者との関わりの中で一つの認識で一致したりする瞬間は、感激しちゃったりもするんだけど。
N:まあなにかを問わず共感て気持ち良いもんですからね。
社会的圧力の後押しを受けながら、誰かと自分とを分断し、こちら側で共感の中にどっぷり浸かるという瞬間の気持ち良さ。その矛先が弱者に向かっているから今の日本は病的なんだよなー。
そういう連中の中には女性を弱者と名指して良いものか、なんて話はあるけど、そうした発言の端々にそう呼んでしまうことの後ろ暗さや露悪性が潜んでるあたり、スケープゴートにされてるのは否めない。
2015/06/09(火) 性愛と恋愛、マッチョイズムの姑息さ
Y:久しぶりにSMしてもいいかな、って(思える)人と会ってきたんだけど、やっぱり相手の想定してたのは「セックスありきのSM」でしかなかった。説明が足りなかったのかなあ。
仕事じゃないし、自分のしたいこと・したくないことに嘘はつけないし、嘘つくのは不誠実だとも思うから、ありのまま「脱ぎたくない、触られたくない、命令も強制もされたくない、ビンタしたいオナニーみたい」って言ったの。でも相手はそれが信じられないみたいで「え、脱がないの?舐めないの?」って、この問答を繰り返すという。「オナニー見てビンタして興奮する」ことの延長線上がなんで「脱いで舐めて挿れる」ことなんだよ!!ばかやろう!!
しかも最後タク代渡す時に「プレイ代金みたいなもんだよね」って馬鹿野郎、売女じゃねえぞ!!!!
あーなんで「好き」の延長がセックスなんだよーー。
ていうか凄い痛感するのが、「SMが好き。セックスは要らない。」って私は表明していて、あたかもそれを受け入れたフリをするくせに、いざそういう雰囲気になったら「え、まじ?」って顔されるのなんなん。なんなん。
そういう倒錯的嗜好は、ある人にとっては本当に「夢物語」なんだろうな。無い物にされてるんだろうな。
N:セックスはしたいけどセックス以外のものを共有できないとセックスも楽しくないよねって人だからわかる。
セックスが最重要みたいなのはつまんないよね。
Y:セックスできなきゃ(もしくはセックスが想定されなければ)「好き」とみなせないんだったら、大体好きじゃないわ!
なんか、こういうことがあると、「好きってこうあるべき」の圧力に負けて、自分の中の「好き」の気持ちをなかったことにしたくなっちゃう。けど、そんなことしたって自分の人生がツマんなくなるだけだからしないけど。
ていうか、なんで私が謝ってあっちは謝んないわけ?!性癖が倒錯してるからってなんで私だけが立場弱くなるの?!「残念だわ」とか言われたくないし、こっちのセリフじゃっっ!!
N:全くだわ
・・・
E:セックスってなんだろうね
N:セックスっつうかさ、性欲が充足される行為だよね。
セックスって普通挿入行為のことを言うんだろうけど、個人的な基準で言うなら、挿入行為の瞬間そのものは性欲の充足には大して繋がってないし、射精も流れの中で上手くできなければ単なる気持ちの区切りぐらいだなあ。
男でも個体差あるから男同士で話しててもわかんねえんだよな。
というより、セックスがセックス以上の言葉、どの様に行われるかが詳細に語られることは少ないね。挿入と射精があり、それぞれがどの様に行われたかってぐらいのディテールしか語られない。男同士でも。
Y:私は割と「挿入・射精に関わらないセックス」の話はするかな。周りに理解者が多いから。
やっぱBDSMの概念が必要だ
・・・
H:前々から気付いてたけど私、性愛と恋愛を結びつけることがすごい苦手だ。そこでみんなと齟齬が生じてしまう気がする。性愛にまつわるアイデンティティや自尊心の問題には興奮するのだけど……。恋愛というか、性欲と愛を上手く結びつけられない。
N:イコールではないよなー
H:なんか私の場合それが極端というか、前は純粋に性的対象にする相手は自分の快楽のための道具だと思って人間的な交流求めなかったし、それ以外だとお金とか家とか目的ありきのセックスしかしてない。人として特別好きになって恋愛関係になったらそれに伴ってセックスするのは仕方ないみたいなのはあったけれど。
SMに関しても一方的な欲望をぶつけてくる人が好きで、私と分かり合いたいとか愛し合いたいみたいな感じがする人は縁を切ってきた。
N:なるほど。結び付けられないだけでなく、相容れないって感じか。
H:彼氏とかもまだ友達でもないのにセフレから恋人に格上げしてはいけない人を格上げしてしまったことで葛藤があったりした。
あるとき私にとっての恋愛と世間での恋愛は決定的に違うと気づいて、それからはある意味世間的な恋愛や性に関するコンプレックスからは自由になれました。
なんかでもここ(大人部のLINEグループ)にいるとみんな性愛関係を基底にした関係の倫理とか幸福について語っている感じがする。
N:性愛と性欲ってのは別のものってこと?
H:性愛関係は愛の基底にはならないというのが私の感覚。
でも性愛にまつわる自我のあり方についてのやりとりとかは愛の基底になりうる。
N:愛の話かなりむずい
H:単純に異性愛(タチネコといった役割が規定された同性愛も含む)関係によって結ばれる恋愛というのをそんなに信じてない。それって結局、生殖が関係の中心にあるのでは?と思ってしまう。
N:互いの役割にはまろうとすることと互いの関係を形作るものはイコールではないってことかな。
男と女だから愛し合うのではなく、愛の持続のために役割を演じるというか。
H:愛の持続のために役割を演じることから解き放たれるときが愛の実現なのかもしれない。
E:私もそう思うな
N:おお、それ(Hの発言)なんか凄いな。
E:ていうかその男、女王様を金やチンコやロジックで支配したいタイプの性癖のヤツでは。
N:タクシー代出すのを恩着せがましく言うのとか、恋人同士はもちろん、割り切った関係だったとか、たとえ性嗜好がマイナーじゃなかったとしてもあまりにも野暮でしょ
その手の金とかロジックでマウンティングするやつってなんでこう姑息なのかな。
この手のマッチョイズムとかに裏付けされた姑息さとか卑劣さを、そのまま男らしさとか男だったら仕方ないみたいな言葉で語られるのが、男として耐え難いんだよね。
このような会話を前提に、今回の部会は開かれました。
それぞれが抱えるジェンダーやセクシャリティ、そこから派生する社会との齟齬、他者とのすれ違い。
種々の悩みに突破口はあるのでしょうか。その活路の先に「愛」の実現は可能なのでしょうか。
そんな荒唐無稽にすらみえる疑問について、考えを巡らしました。
「第3回大人部部会レポ(後半)」へつづく