【レポ】フェチ研vol.1《暗号としてのフェティシズム、映画『毛皮のヴィーナス鑑賞』》
悠です。
先日、フェチ研vol.1を開催しました。
この日のテーマは
《暗号としてのフェティシズム、映画『毛皮のヴィーナス鑑賞』》
フェチ研の前身である家縄会では、暫くの間ポール=ロラン・アスン著『フェティシズム』を糸口に「フェティシズム」の思想史について学んできました。
民俗学の領域で生まれた「フェティシズム」の概念が、性科学や経済学を経由して、精神分析学の領域でどう花開いたかを紐解く著作です。
フェチ研vol.1では、「フェティシズム」の概念を、ウィニコットやラカンなど、ポスト・フロイトにあたる精神分析家たちがどのように解釈したかを学びました。
また、その後に映画『毛皮のヴィーナス』(ロマン・ポランスキー監督)を鑑賞し、これまで学んだ「フェティシズム」を映画体験の中から探りました。
●映画『毛皮のヴィーナス』について
ここで映画の概要を一部引用します。
解説
マゾヒズムという言葉を生んだ、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』にインスパイアされたサスペンス。
メガホンを取るのは、『戦場のピアニスト』などのロマン・ポランスキー。
主演は監督の妻でもあるエマニュエル・セニエとマチュー・アマルリック。
あらすじ
高慢で自信に満ちあふれている演出家トマ(マチュー・アマルリック)は、あるオーディションで無名の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)と出会う。
品位を全く感じさせない彼女の言動や容姿に辟易(へきえき)するトマだったが、その印象とは裏腹に役を深く理解した上にセリフも全て頭にたたき込んでいることに感嘆する。
ワンダを低く見ていたものの、オーディションを続けるうちに彼女の魅力に溺れていくトマ。
やがて、その関係は逆転。
トマはワンダに支配されていくことに、これまで感じたことのない異様な陶酔を覚えてしまう。
引用元 Yahoo!映画
この作品の中で、女優のワンダと演出家のトマは、誰もいない二人きりの劇場で、オーディションと称してマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』の戯曲を演じます。
劇中劇というやつですね。
さて、映画作品について述べる前に、マゾッホの小説について知っておきましょう。
●マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』について
解説
「小ロシアのツルゲーネフ」と謳われたウクライナ出身の小説家マゾッホが1871年に書いた中編小説。
彼の代表作であり、そこには「マゾヒズム」の開花が見てとれる。
あらすじ
退屈なカルパチアの保養地で過ごすゼヴェリーン(映画ではトマがこの役を演じる)は、そこで彫刻のように美しい女性、ワンダ(同様にワンダがこの役を演じる)と出会った。
まだごく若い彼女は未亡人であった。
ゼヴェリーンはその美貌と奔放さに惹かれ、またワンダも知性と教養を備えた彼を愛するようになる。
自分が苦痛に快楽を見出す「超官能主義者」であることを告白した彼は、ワンダにその苦痛を与えて欲しいと頼む。
そして自分を足で踏みつけ、鞭で打つときには必ず毛皮を羽織ってくれ、とも。
はじめはそれを拒絶していたワンダだが、彼への愛ゆえにそれを受け入れる。
そして2人は契約書を交わし、奴隷と主人という関係になる。
引用元 wiki
19世紀の精神科医・クラフト=エビングが造語した“マゾヒズム”の語源になったのは、他でもない、このマゾッホでした。
●マダムからミストレス、そして“ヴィーナス”へ
映画に話を戻しましょう。
映画でトマ演じるゼヴェリーンは、ある幼い頃の体験について、告白を始めます。
「毛皮を溺愛する叔母がいたんです。」
高貴で堂々とした肉感的な女、そのように見えていた叔母。
その叔母がある日、悪さをした自分を毛皮の上に押さえつけ、樺の枝で折檻をした。
最後に叔母は“ひざまついて懲罰に感謝し足に口づけなさい”と命令し、部屋を出て行った。
「あの出来事から、毛皮は私にとって単に毛皮ではない」
その体験からゼヴェリーンが導き出したのは
「痛みは最も官能的な感覚で、恥辱こそ最高の快楽だ」
ということ。
この「告白のシーン」を演じるトマは、それがまるで自分自身の経験であったかのような、バツの悪い、複雑な表情をしています。
演出家といえど、男優でもない素人の演技にしては、やけにこの告白が「本物っぽい」のです。
それはなぜなのか。
それは、ゼヴェリーンこそトマが自己を投影する象徴的人物であり、その役を演じることで、自らの嗜好性がどうしようもなく暴露されてしまうからなのです。
この映画は、小説の「ゼヴェリーンとワンダ」、映画の「トマとワンダ」、二対の男女を描きながら融解させることによって、新たな「女性崇拝」の記念碑を鋳造する映画なんだ、というのが私の解釈です。
劇中劇の中で、ゼヴェリーン(あるいはトマ)からワンダへの呼称が「マダム→ミストレス→ヴィーナス」と、より高位なものへ変化していくところなんて、ホントそれを象徴していると思います。
では、この「女性崇拝」の物語に潜むフェティシズムについても考えてみましょう。
「フェティシズムはエディプスコンプレックスを解決する際のナルシシズム的防衛である」
つまり、エディプス期の去勢不安の元となる「母のペニス」の幻想が、「母のペニス」の代用としてのフェティッシュを選び出すのだ、ということ。
もちろん「母」というのは実在の母ではなく、いうなれば「母的な存在」のこと。人間が幼い頃に初めて「愛」を向ける対象のことです。
この映画内では「叔母」がその位置にあたるでしょう。
この映画では、届かぬ叔母への愛が毛皮や樺の木に移行していく「フェティシズム」の成り立ちが、ゼヴェリーンの物語を通して描かれています。
また、このフェティシズムが強調されればされるほど、叔母への届かぬ愛も際立ち、その不運が「女性崇拝」の物語を強化します。
この焦れったい関係性の連続が、女性を人間以上のものとみなす「女神崇拝」にまで高まるのです。
ある愛の欲望が神秘的な体験にまで昇華する、この弁証法的なストーリー展開が、私にはオーガズムの疑似体験のようで、とてもエロかったですね。
ここで、ラカンにおけるフェティシズムの解釈について取り上げたいと思います。
ラカンのフェティシズム観を捉えるには、まず彼の軸となる思想を学ぶ必要があります。
それが「鏡の段階」という考え方。
生後6ヶ月ごろの幼児は、それまで自他未分だった母との関係が、「想像の鏡」の中に写る自分の像を発見することによって、母から分離される、というもの。
「想像の鏡」というのは、イメージとして世界を捉えるのに必要な領域のことです。
例えば、自分自身のイメージを「想像の鏡」に写して観察すれば、楽しいときには笑顔になり、ムカつく時に口を尖らせることが分かるでしょう。それゆえ、他者に「今、私は楽しい」ということを伝えるために笑い、「今、私はムカついている」と伝えるために口を尖らせるのです。
このように、人は「想像の鏡」に写るものを通じて、自己と世界を結びつけることができるのです。
また、この「想像の鏡」が担うようなイメージの世界を、彼独特の言葉で「想像界([仏]Imaginaire)」といいます。
フロイトのエディプス期における「母のペニス」はこの「想像界」に属すると言えます。
想像上にしか存在しない「母のペニス」を、なにか他の象徴的なもので代用したものが、「フェティッシュ」です。
また、ラカンはフェティシズムを、想像界を経由して象徴的対象を選ぶ構造である、と捉えていたようです。
これを参考にした上で言い換えれば、フェティシズムは、現実界(言語以前に存在している圧倒的な現実そのもの)→想像界→象徴界を特殊な方法で関連づける機構である、と言えます。
●映画『毛皮のヴィーナス』における2つの「フェティシズム」
映画『毛皮のヴィーナス』には、大きく2つの「愛」の欲望が存在し、フェティシズム的な構造をとっていると分析できるでしょう。
それは、
・ゼヴェリーンから叔母に対する愛
・監督ポランスキーから小説『毛皮を着たヴィーナス』のワンダへの愛
後者についてまだ述べていなかったので、最後にそれについて少し書いて、終わりにしようと思います。
ここからの話は私の妄想の域を出ないということを予めご承知下さい。
小説上のワンダは、ポランスキーの想像界における「欲望」のシニフィアンになっている。
そして、彼の欲望の象徴的な代理は、映画内のワンダなのだ。
それは、ワンダ演じるエマニュエル・セニエが、実際に監督の妻であるという二重構造によってより信憑性を高めます。
この「ワンダ=監督の妻」というメタ構造によって、ゼヴェリーンやトマが監督自身を象徴する人物である、という推測が導き出せるのです。
監督のワンダへの愛は、一生叶うことはありません。
だって、ワンダはマゾッホの小説の中にしか存在しないのですから。
総じて、この映画は“フェティシストのマゾヒズム的な片思い物語”と言えるかもしれません。
●最後に
もちろん、この「フェティシズム」の捉え方は全て「精神分析学」に基づいたものなので、それが全てではありません。
今後もフェチ研では様々な観点から「フェチ」について研究していこうと思います!