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大人部ブログ

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酒鬼薔薇はなぜ反省しないのか―『絶歌』を読んで

コラム セクソロジー

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者である酒鬼薔薇聖斗こと少年Aを自称する者が手記『絶歌』を出版した。被害者遺族に許可なく出版されたこと、印税を被害者遺族への賠償にあてると明言されていないこと、著者が本当に事件の加害者である証拠がないことなど、出版の倫理に関して数多くの問題がある。そのことについては多くの記事で触れられているが、内容についての考察はあまり見かけない。ここでは、「なぜ元少年Aの手記からは反省が感じられないのか」をテーマに、私が感じ考えたことをまとめたい。

1 元少年Aの苦悩はありふれたものか
2 少年Aの原罪
3 罰を渇望するマゾヒズム
4 なぜ子供はオナニーしてはいけないのか
5 反社会的な変態は死ぬべきなのか
6 死んだところで謝罪にはならない
7 贖罪のために必要な「自己救済」とは


1 元少年Aの苦悩はありふれたものか
ネット上に挙げられた『絶歌』の内容への批判を見ていると、元少年Aは自己陶酔に浸っているとか、文体が幼稚な虚飾に満ちているとかいった過度なナルシシズムを批判するものが溢れている。しかし、私はそこを批判するのは的外れで、少し冷静さを欠いたことなのではないかと感じている。
たしかに、『絶歌』は文学的な比喩表現が少し過剰で読みにくいところがある。それがまるで自らの文章力をひけらかしているようで不愉快に思う気持ちもわからなくもない。しかし、すべてがすべて元少年Aにとって都合の良いことが書いてあるわけではない。とくに、一般的な人間がけして公に晒したくないデリケートな部分である性的なコンプレックスについては、その説明を避けて自らを語ることは不可避だとしてかなり赤裸々に語られている。それは非常に勇気のいる告白であっただろう。
また、元少年Aは自らを特別な存在だと思い込んでいるが本当は凡庸な人間だ、といった批判にも違和感がある。元少年Aがどこにでもいる人間だと言うような人は、生き物を殺すことでしか性的快楽が満たされないほどの「性的サディズム」を抱えて思春期に悩んできた人間をそんなに周囲で何人も見てきたのだろうか。そうした友人から相談をうけた経験でもあるのだろうか。
たしかに、「性的サディズム」の引き金となった愛する者の死はありふれた苦しみの経験かもしれない。しかし、幼い少年Aがその苦しみとの向き合い方のなかで歪んでいったことは、多くの人にとって理解されがたいことだっただろう。そこからくる孤独感を「凡庸」で片付けていいものか。
さらに、未だに元少年Aは殺人をしたことを誇っているとか自慢しているという批判まであるが、これも勘違いではないかと思う。『絶歌』においては反省や謝罪こそまるで伝わらないが、自らが犯したことへの後悔と、自己否定的な感情はかなり色濃い。むしろそこには、殺人の衝動を持たずに生きることが可能な多くの人への激しい劣等感が感じられる。世間の感想とは裏腹に、元少年Aはナルシスティックどころか、健全な自尊心が欠如した人間のように私には思える。

2 少年Aの原罪

『絶歌』からは謝罪や反省の意思が感じられない、という多くの批判には私は共感する。そう感じさせられる理由は主に二つある。ひとつには、出版の動機が被害者遺族や社会に対する責任を果たすことでなく単なる自己救済を目的とする表現欲求であるということ。ふたつには、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し「わからないが、自分が苦しむことになるのでやめたほうがいい」という回答をしたことだ。
しかし、『絶歌』を読んでいると、なぜ元少年Aが本質的に反省することも、被害者やその遺族の気持ちを汲み取ることも、世間が求める謝罪を形式的に表明することすらもできないのか、その謎をとく鍵は掴めそうな気がする。

少年Aの不運は、思春期の性衝動があろうことか「死」だけでなく、「罪悪感」と結び付いてしまったことにあるのではないだろうか。はじめての精通を経験したときのことについて、元少年Aは手記のなかでは次のように自己分析している。

「僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら精通を経験した。僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。その後も僕は家族の目を盗んでは、祖母の部屋でこの“冒涜の儀式”を繰り返した。祖母の位牌の前に正座し、線香をたてる。祖母との想い出を記憶の冷凍庫からひとつひとつ取り出して解凍し、電気按摩機のスイッチを入れ、振動の強さを最大に設定し、それを切腹さながらにぺニスに突き立てる。“穢らわしいことをしている”という罪悪感で快楽が加速する。」

当時の少年Aは、性的なことへの関心も知識もまったくないまま精通を経験してしまった。だが直感的に、自分がしたことがとんでもなく穢らわしい行為だということを感じ取ったという。また、「罪悪感」という表現に表されるように、それが罪であるということも同時に感じ取っていただろう。

3 罰を渇望するマゾヒズム

少年Aは後年になって精神科医に「射精に激痛が伴う」ということを話したことがあり、医者はそれを「性欲に対する罪悪感の表れ」だと言ったという。元少年Aの性的な快楽と肉体的な痛みとの関係について、手記のなかには他にも興味深い独白がある。

「攻撃性のヴェクトルが他人に向かうか自分に向かうかの違いだけで、“サディズム”と“マゾヒズム”はともに「死の欲動」から分離した一卵性双生児である。つまり“MADなサディスト”は同時に“MADなマゾヒスト”でもある。僕とて例外ではない。祖母の部屋ではじめて射精し、あまりの激痛に失神して以来、僕は“痛み”の虜だった。二回目からは自慰行為の最中に血が出るほど舌を強く噛むようになり、猫殺しが常習化した小学校六年の頃には、母親の使っていたレディースカミソリで手指や太腿や下腹部の皮膚を切った。十二歳そこそこで、僕はもう手の施しようのない性的倒錯者になった。」

この「痛み」は少年Aが罪に耐えるために自らに与えた罰だったのではないかと私は推測する。射精に激痛が伴うことで彼の快楽が成立するように、罪への罰に相当する「痛み」を受けたときに彼は、はじめて満たされるのではないか。少年Aの快楽は罪だけでなく罰までからめとってしまったのではないか。
その、罰となる「痛み」を肉体的にだけでなく精神的にも渇望する様子がわかるのが、手記のなかにある被害者の淳さんへの特別な感情についての記述だ。少年Aは淳さんとかくれんぼをしていて淳さんがAを見つけられずに泣いているのを見たとき、その姿を、木登りをしていたAを心配して泣いたかつての祖母の姿に重ね合わせる。

「自分は受け入れられている。自分が何をしても、しなくても、淳君は自分を好きでいてくれる。だがどういうわけか、僕は、自分が“受け容れられている”ことを受け容れることができなかった。あの時祖母にしたように、淳君のほうへ駆け寄って、淳君を抱きしめることができなかった。穢らわしい自分、醜い自分が許容されることに、嫌悪感さえ感じた。」
「僕は、自分が、自分の罪もろとも受け容れられ、赦されてしまうことが、何よりも怖かった。余りにも強烈な罪悪感に苛まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。僕は罪悪感の中毒者だった。罪悪感は背骨のように僕を支えた。それを抜き取られると僕は、もう立っていられなかった。自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐え難い、自分への“冒涜行為”に他ならなかった。憎まれたい。責められたい。否定されたい。蔑まれたい。ひりつくような罪悪感に身悶えしたい。それだけが“生”を実感させてくれる。」

少年Aは、ありのままの自分をすべて受け容れてくれる優しさゆえに祖母と淳さんを深く愛していながら、その優しさに傷つき、罰せられることを求めている。自らのアンビバレントで矛盾した感情への混乱と性的衝動が相俟って、少年Aは「心の闇」を深めていく。
少年Aの攻撃性は、むしろこの罰を渇望するマゾヒズムを基底にしているのではないかと私は感じた。
精神科医の片田珠美は、こうしたAの倒錯について次のように語る。

「逆説的に聞こえるかもしれないが、罪の意識のほうが犯行より先に存在しており、実際に何か悪いことをして罰を受ければ、精神的な負担が軽くなると感じているような犯罪者がいる。罰を誘発するためにあえて「悪い子」になるわけで子供っぽい。」(週刊文春 平成26年6月25日発行)

少年Aは死刑になることを望んでいた。死刑という罰を受けることへの欲望は、殺人という罪を犯すことへの欲望と表裏一体だったのだろう。もし少年Aが本当にすぐに死刑になっていたならば、物凄い快楽の中で幸福に死んだかもわからない。その上、自らが犯したことへの責任を果たしたことにもなる。
しかしそうはいかなかった。Aはこれからも生きて償い、反省を示し、謝罪をしていかなければならない。

4 なぜ子供がオナニーしてはいけないのか
さて、ここで「なぜ、元少年Aは反省しないのか」に話を戻そう。
小さな子供は親に叱られれば素直に悪いことをやめる。それは自分のしたことが悪いと理解したからではなく、絶対的な存在である親に叱られることが恐いからだ。罪と罰は外部から一方的に与えられるものでしかなく、そこに反省はない。悪いことをしない理由は倫理的なものでなく、そのほうが叱られずに済んで楽だという合理的なものにすぎない。
反省ができるようになるのは、自分のしたことが善いか悪いかを自ら考えることが可能になってからだ。自ら問いかけ、考え、意思を持ち、他者と接することではじめて責任能力を持った個人になったと言える。
元少年Aは、事件から20年近くたって、はじめて精通を経験したときの「冒涜の儀式」について告白し、それを「原罪」「小さな小さな罪の原型」と呼ぶ。おそらくそれは罪の核である。しかし、当時の少年Aは、それが「とんでもなく穢らわしい行為」「罪悪」だと直感的には理解するが、それがなぜ穢らわしい行為で、罪悪であるのかについてはおそらく説明ができなかっただろう。それを冷静に考えて理解する前に、罪悪感にのまれてしまったのだ。
しかし、そのことはさして珍しいことではない。性的対象こそ違うが、日本社会に生きる多くの子供は親に隠れて自慰行為を行うし、それが正しいか間違っているかなど考えずにこそこそとし続ける。
大人と子供との間には、なぜか性にまつわるタブー意識がある。大人は子供が水面下で性的に目覚めていることを知りながら、見てみぬふりをして不自然なまでの建前の純潔を演じることを期待し続けるし、子供はそれを受け入れる。大人もまた自身の性的な部分を子供に対して隠蔽したがる。日本社会において性の扱われ方はそういうものだ。
たいていの人が子供のうちは漠然とした罪悪感を覚えつつ自慰行為や性行為をし、大人になると急にわけもなくそれが許され解放されることになる。自慰行為や性行為が悪から善へと転換するその境目を決めるものは年齢だけだ。そこに問いかけや、考えることや、意思などいらない。
そして、今まで性のこととなるとギクシャクしていた大人たちは、子供が成人すると急に結婚と子育てを前提とした異性との恋愛を求めるようになる。しかし、性から逃れることのできない思春期において、表面的な性教育はあっても、性倫理について聞いたり語ったりする機会など与えられない。日本社会全体が、性倫理において責任能力のある自立した個人に成長することを子供に求めないのだ。
こうして空虚な慣習を守ることでしか近代的な性秩序を保てない日本社会において、少年Aのような特異な性的志向に苦悩する子供が、偏見や差別を恐れず大人を頼ることなどあるはずがない。子供に建前の純潔を無言で要求するような社会に、性的マイノリティの子供がいる可能性など想定できるはずもない。そうした子供を平等な存在として受けとめてくれる世界が、「良識ある大人向け」とされるアンダーグラウンドなコンテンツ(元少年Aの場合、彼が共感するシリアルキラーたちについての情報など)しかなかったとしても、何ら不自然ではない。
おそらく、少年Aが幼い頃から強烈な罪悪感を自覚しながら「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」原因は、多くの子供が自慰行為への罪悪感を自覚しながらなぜそれがいけないのかわからないのと本質的に同じなのではないだろうか。それが罪悪であることは直感的にわかるが、なぜ罪悪なのかは思考停止してしまうのだ。それは、社会が子供たちに対して性倫理について考えさせるどころか、曖昧な性道徳によって抑圧することしかできなかったことのツケとも言えるかもしれない。

5 反社会的な変態は死ぬべきなのか
『少年A矯正2500日全記録』の著者、草薙厚子によれば、更生プロジェクトチームに属する精神科医の女性に恋愛感情を抱くことで少年Aは「性的サディズム」からくる殺人衝動を克服したというが、そのことについて『絶歌』では一言も触れられていない。 妻子がいるという噂もあるが、それもネット上の根拠のない噂にすぎない。淳さんの遺体を損壊するときに射精してから2年後に再び射精したと書かれているが、そのときに彼がどのような性的志向・嗜好を持っていたのかは明らかにされない。
ネット上には、性的欲求に根差した殺人衝動を持つ人間を更生することは最初からできないのではないかという意見が多い。しかし、そう言っている人たちは、もし自分の子供が同じような性的倒錯者になってしまったとき、「更生は不可能だから社会のために死ぬべきだ」とすぐに思える自信があるのだろうか。取り返しのつかないことになる前に自身の志向性と上手く向き合いながら社会の中で生きる場所を見つけてほしいとは思わないのだろうか。もし『絶歌』を読んでもそうした想像ができないとすれば、『絶歌』は本当に何の社会的意義もなかったことになるだろう。
快楽殺人を犯すような人間を生かしてはいけない、元少年Aは「悪魔」や「鬼畜」だから殺すべきだ、というように私刑を煽るような書き込みも大量にある。そういった人たちは、『絶歌』を読んでも元少年Aが「自分が死ぬ覚悟があれば人を殺しても許される」という安易な考えがあったことがわからないのだろうか。「死ね」という単純な世間の憎悪は、罪人の全存在を否定すれば正義が守られるかのように夢見ている。しかし、それは少年Aが陥ったのと同じ誤った認識だ。
健全な自尊心と自己肯定感のない人間は他者に共感することも優しくすることもできない。ましてや、人を傷つけたことを反省し謝ることなどできない。「死ね」というバッシングは、「死ぬこと=償い」で済まされるという考えを甘やかす。
とくに、元少年Aの場合は殺人という罪への欲望と死刑という罰への欲望は表裏一体であることに留意すべきだろう。死刑にすることは、彼に殺人を許すことと同意だ。元少年Aにとって自分の死は、被害者の死と同じ意味を持たない。よって元少年Aは死刑になっても被害者の苦しみを味わうことはないだろう。

6 死んだところで謝罪にはならない

元少年Aは手記のなかで、「どうして人を殺してはけないのか」という問に対し、「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことにるから」と回答し、その苦しみついて次のように語っている。

「何より辛いのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を斬り苛む。」

元少年Aは、これを人を殺したことで経験した苦しみだとしているが、同じような苦しみは犯行前から既に抱えている。それは先に引用した、祖母と淳さんへの想いについての独白からはっきりと読み取ることができる。人を殺しても殺さなくても、元少年Aが罪悪感に苛まれ、他人の優しさに傷つき続けたであろうことは変わらないのだ。これは元少年Aの実存的な苦しみであって、「人を殺してたことによって受ける苦しみ」の説明にはなっていない。そもそも、元少年Aにとっては祖母の部屋での自慰行為も淳さんを殺害したこともほとんど同じレベルの罪悪なのだろう。
元少年Aの他者への認識は、「罪悪を含めて全存在を受け容れられるか」「罪悪があるゆえに全存在を否定されるか」の二択しか想定していない。しかし、彼はどちらにも耐えられない。愛する人に罪悪を許されては生きていけないし、愛する人のいる世界を捨てて自らを殺すこともできない。
このような極限状態に追い詰められてしまうのは、「罪悪は許されないが存在は受け容れられる」という状況を想定できないならだ。元少年Aは、複雑に絡み合った自我と罪悪感とを切り離し、罪悪感を「生きるよすが」とすることをやめなければならない。自己の存在否定こそが求められる罰であり償いであるという考えにいつまでも囚われては、罪悪そのものと向き合うことはできないのではないか。

7 贖罪のために必要な「自己救済」とは

出所後も元少年Aの目の前にいる他者への気がかりは、相手が自分の全存在を受容するか否定するかのどちらに傾くかであり、その関わりが共感からはじまることがほとんどない。元少年Aの共感の対象は専ら直接関わることのない文学作品や漫画の登場人物や歴史上の人物や芸能人だ。性的サディズムに苦しみ、偏見を恐れるまでもなく誰に理解されることも期待せず書物などの情報に逃げ込んだ少年時代と変わらない。徹底的に孤独であろうとする生き方からは、元少年Aが他者に理解され共感されるということをどれだけ諦めているかが伝わる。
彼が他者への共感からコミュニケーションをとり、理解されようという希望をもたない限り、人の痛みや苦しみを自分のこととして感じることも理解できないのではないかと私は思う。そして閉ざされた心を開くものは、他者に存在を受容されるということを越えた、他者から共感され理解されたという実感なのだろう。
しかし、それを掴むにはあまりにも彼は歪みすぎた。
モンスター酒鬼薔薇が本当の「自己救済」を果す日まで、彼の反省と謝罪が私たちに伝わる日もきっと訪れない。



不明