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大人部ブログ

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映画『百合祭』を観ました!

 超お久しぶりの更新です。福原です。長い事更新しておりませんでしたが、相変わらず部員一同、相変わらず性について考えたり勉強したり実践したりという毎日を送っており、互いに情報を交換したり、愚痴ったり、喧嘩したりしています。今後も気の向くままに更新していきます。

 さて、今回久々に更新しようと思ったのは、以前にもこのブログで取り上げた浜野佐知監督の映画『百合祭』の上映会があったからです。浜野監督の映画はなかなか劇場で一般公開されないレアな作品が多い上に、以前見逃していた映画ということもあって、観に行かないわけにはいかないと思って観に行きました。ちなみにネタバレしております。


映画「百合祭」予告篇

 この映画は、高齢者女性ばかりが暮らす古いアパートに、ある日プレイボーイな高齢者男性が入居してきたことから、女性たちが自らの性的欲求に目覚め、そこから生じたひとりの男性をめぐる女性たちの様相を描いた映画です。原作ではその男性を中心に描かれた物語になっているのですが、本作は映画化にあたって、女性視点からの物語になっております。これまでも、たとえば私の敬愛する監督の一人であるライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『不安は魂を食い尽くす』などがありましたが、あの場合は欲求の対象は若い男性であり、本作のように同年代ではありませんでした。また、『不安は魂を食い尽くす』の原案であるダグラス・サーク監督の『天が許し給うすべて』も主人公は若くはありませんが、本作のように老齢といわれるような年齢層ではありません。また、映画の結末は原作の小説の結末とは大きく異なっていて、そのことで原作者から怒られたそうです。しかし、この映画化にあたって変更したという点が、この作品の大きな意義となっております。その意義とは一体何かという事を、上映後の監督のトークショーを紹介する形で触れていきたいと思います。

 この作品は2001年に制作された作品で、浜野監督自身も閉経を迎えるころに撮られた映画だそうです。監督曰く、世の中では高齢者女性のことを「賞味期限切れの弁当」「用済み」かのように扱うが、そんな世の中とは別に女性自身には性的欲求は在り続ける、ということをうったえたいという事が根底に強くあったそうです。監督自身、閉経を迎えても自分の性的欲求が衰えることがなかったということが大層うれしかったそうで、「(感染症に気をつけさえすれば)ヤりたい放題」だと思ったそうです。

 この映画に出てくる女性たちは、男性に先立たれたり、存命中も浮気をされて家で一人ぼっちで待たされたりという形で、長い間男性とのセックスが無かった女性ばかりでしたが、ミッキー・カーチスさん演じる入居した男性・三好の物腰柔らかな態度、積極的なスキンシップ、美しさを称える語弊の多さなどのプレイボーイっぷりにより、たちまち自身の欲求を花開かせます。主人公である、吉行和子さん演じる宮野も、三好に口説き落され、自身の部屋でセックスをします。宮野は三好との情事の間、恍惚の表情を浮かべながら、こう言います。

      「やわらかくて…あたたかくて…きもちいい…」

 三好も高齢者なので、すでに勃起能力がない。しかしながら、「きもちいい」セックスができるということを示しています。つまり、この映画は"高齢者女性の性的欲求"という世の中から無いものとされている存在を描くだけでなく、それを描くことで世の中に広まっている"勃起した男性器(専門的な用語でいうと「ファルス」)を女性器に挿入する"という異性愛中心主義的なセックス観を解体することも狙いに含まれているのです。監督は、勃起能力がない事に不安をおぼえたり、挿入行為に捉われ続けている男性たちへのエンパワメントにもなる、ということを語っていました。現に、この映画は制作されてからしばらく、海外の女性映画祭やレズビアン・ゲイ映画祭を中心に上映されていたそうですが、中にはフランス語圏の男性からとても感激したと熱烈なリアクションをされたということも述べていました。

 その方向は高齢者同士のセックスの達成のみで留まりません。この映画は男性と女性の役割の転換も意図的にもたらしています。それは、宮野が序盤から何度も思い浮かべる、三好が白雪姫となり(ミッキー・カーチスの女装コスプレ!)、その周りを小人の衣装をまとった女性たちが舞い踊るイメージだけではなく、三好が女性たちに"共有"されることで女性たちの結束を強めるという結末自体も、セジウィックという理論家が『男同士の絆』という本で指摘した、"ホモソーシャルな欲望"をひっくり返したものになっています(ただ単にひっくり返してるから良い、というわけではありませんが)。

 そして重要なのは、宮野がたどる結末です。三好が引っ越してくるより前、映画冒頭に目黒幸子さん演じる戸塚という女性が亡くなりますが、宮野はその戸塚との思い出を、主観的な顔のクローズ・アップで捉えています。古いハリウッド映画などで多く用いられた手法ですが、カメラを通して見つめ合う2人の顔の交換は、そこに映っている相手への恋愛感情の芽生えなどを暗に示しています。宮野には女性への性愛的な欲望があったことに、三好とのセックス、つまりファルスを介さないセックスをきっかけに気づくのです。

 この映画は脚本家の山崎邦紀さん曰く、東京レズビアン&ゲイ映画祭で観た、高齢者になって自らがレズビアンであったことに気づいたという女性を取り上げたドキュメンタリーが下敷きにあるそうです(山崎さん本人いわく「パクリ」らしいですが、検索しても作品名がわからず、僕自身未見なのでなんとも…)。このエピソードからもわかる通り、ファルスを必要としないセックスの快楽を覚えた宮野にとっては「男も女も関係ない」事に気づくのです。宮野はそこから戸塚との記憶をなぞるかのように白川和子さん演じる横田との関係を築き、奔放な乱痴気騒ぎなどではなく、それまで知らないうちに抑圧されていた自らの欲求に正直になるという形で、宮野は自身の「性の解放」を手に入れます。それを示すかのごとく、今まで小さな古いアパートの中での出来事が主だったにもかかわらず、突然大きく開けた横浜の海の上に舞台が移ります(そういえば、三好と出会ったのもアパートの前の開けた空地のような場所でした)。そうして解放を手に入れた宮野と横田の最初の姿を、暗い船の中から、明るい日差しが降り注ぐ甲板の上で捉えるという、物語で得られる解放と、場所の解放感とが重なりあうショットには思わず目がうるんでしまいました。

 また、上映後の浜野監督はさらに重要なことに、セックスを「愛」と結び付けることにも注意すべきだと言っていました。「男からすれば愛しているんだから股を開いて俺を受け入れろ、女からすれば愛しているのだから股を開いて彼を受け入れなければいけない。そういう強迫観念に基づいた、男は能動、女は受動という形で役割を強いてきたシステムがこれまで存在していた。でも、セックスっていうのはもっと自由なかたちであっていい」という言葉は、セックスをより楽しみたい人にも、セックスの必要性を感じない人にとっても、いくらか自由を感じる言葉ではないかと思います。

 このように、テーマが持つ意欲的な姿勢のみならず、技術的に観ても大変優れた本作ですが、実は日本国内で公開されたのは、制作から4年も経ってからだというのだから驚きです。浜野監督曰く、「ババアのセックス」なんて誰も視たいわけがない。客が入るわけがない。そういう理由で配給や公開を拒むというのが、この国の映画産業なのだ、と。「この映画が作られたのは15年も前の話で、この映画を作ってから10年や20年も経てば世の中はもっと変わっていて、ああこの時代にはこういうことが問題にされていたのね、と見られるような"古い映画"になると思っていたんだけど、まさか作ってから4年も公開されないし、15年経っても何も変わってないなんて!」と嘆いていました。映画というものに微かながらにかかわっている自分としては、同じように嘆きたい気持ちでいっぱいです。浜野佐知監督の映画がもっと観られるようになり、そして浜野監督の言葉がより多くの人々に届く世の中であればいいな、と強く思いました。