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映画『マルガリータで乾杯を!』とフェミニズム映画理論

福原拓海 映画 コラム 精神分析 フェミニズム

 福原です。
 今回は、最近観た中でとても感動した映画『マルガリータで乾杯を!』について、最近自分が勉強しているフェミニズム映画理論や、女性映画についての議論を自分の中でまとめることも兼ねつつ、照らし合わせながら書いていきたいと思います。


10月より、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開『マルガリータで乾杯を!』予告編 - YouTube


 まず、『マルガリータで乾杯を!』のあらすじから説明します。先に断っておきますが、思いっきりネタバレしますので、もしネタバレが嫌なら、これから先の文章を読むのは置いておいて、すぐに上映スケジュールを調べて、劇場で観られる段取りをつけることをオススメします!
 この映画はインドの女性監督によって撮られた映画で、舞台もインドの首都であるデリーから始まります。インドの名門大学、デリー大学に通う主人公の女性・ライラは、脳性麻痺を患っており、車いす生活を強いられています。19歳という、まだまだ好奇心旺盛な年ごろの彼女は、当然ながら性に対する興味を持っており映画の開始早々、ライラがポルノ動画サイトにアクセスしながら、マスターベーションするシーンが収められます。ライラには、大学に入る前からの付き合いの、自分と同じく車いす生活を強いられているボーイフレンドがいます。しかし、フェイスブックで自分の写真をアップロードする際、トリミングで車イスに座っている部分を削除するほど、自分が抱えるハンディキャップに対するコンプレックスを抱いているライラは、車イスに頼っていない、別のイケメンの男子生徒・ニマに想いを寄せます。ニマと同じバンドで活動を共にするライラは、脈ありと見るや否や、今まで付き合ってきたボーイフレンドとの付き合いを断ってしまいます。これに怒りを隠せないボーイフレンドは、「Bitch」という侮蔑語で罵りますが、ライラも負けじと「Fuck You」という侮蔑語で返します。
 ここまで読んでもらえればわかると思いますが、ライラは決して障がい者だからといって美化されているようなキャラクターではありません。むしろ、たとえ障害がなかったとしても、あまりにも軽薄で、あまりにも迂闊なキャラクターだと思います。じゃあ、この後自分の軽薄さや迂闊さを悔いて、改心して謙虚に生きるなんていう成長物語か?といったら、そうでもありません。だからこそ、僕はこの作品が愛おしくてたまらないのです。もし先が気になる方がいるのなら、ここで読むのをやめて、劇場に観に行って確かめることをおすすめします。まだ遅くありませんよ!
 というところで、いったんあらすじを追うのをやめて、ここで最初に書いた、フェミニズム映画理論について説明したいと思います。「フェミニズム」なんて言葉がつくと、「女性差別だ!」と声高に叫んでいる女性の姿が思い浮かぶ人は少なくないかもしれません。白状しますが、僕自身、フェミニズムについて積極的に興味を持つまでは、テレビタックルに出ていた時の田島陽子さんの様な方が「フェミニスト」なんだろうなと、なんとなく思っていました。しかし、「フェミニズム映画理論」となると、その様なステロタイプや単純なイメージではなく、もっと複雑なものになっていきます。
 フェミニズム映画理論、というものをキチンと語る上では、フェミニズムの起こりから説明すべきなんですが、長くなってしまいますので、「第2波フェミニズム」という言葉を覚えておいてください。フェミニズム映画理論は、その第2波フェミニズムが起こった60~70年代と同時代、あるいはすこし遅れて形作られたものです。まず70年代前半にクレア・ジョンストンという人が、『抵抗映画としての女性映画』という論文において、映画の中での女性という存在が"視られるべきもの"として定められている状況に、反感と危機感を表明します。 ここで観る/観られるという関係性を、前者を強者的、後者を弱者的立場であるという前提を立て、決して女性は映画を観ている観客と同じ立場には立てないという、不均衡な立場に置かれている という抑圧について論じています。それをさらに発展したのが、後に続くローラ・マルヴィの『視覚的快楽と物語映画』です。

 

「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)

「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)

 

  このローラ・マルヴィによる論文は、彼女と時を同じくして映画を論じていたクリスチャン・メッツの、「映画記号学」と呼ばれる考え方に影響を受ける形で書かれています。このクリスチャン・メッツという人が何を論じたかといえば、哲学から影響を受ける形で発展していった、ジャック・ラカンという精神分析医の考え方を用いて、映画を観ている際に観客が、一体どのようなプロセスを経て映画に没頭しているのかという、映画を観ることそのもののメカニズムを解き明かそうとしました。ローラ・マルヴィは、その映画に没頭するプロセスの中にはたらく 「視覚的快楽」が、女性を"視られる対象"として組み込み、また一方で男性を"視る主体"に組み込んでいる 、つまり特定のどの映画が、といった観点ではなく、 "ハリウッド映画を観ることそのもの"が、女性に対する差別的な見方を強化させている構造を持っている 、ということを論じているのです。当然ながら、この論文には当時から現在に至るまで、多くの批判が集まっています。しかし、クリスチャン・メッツが、映画を観ることそのものには、様々な快楽を引き起こしたり打ち消し合ったりしながら複雑に引き込んでいくというプロセスがあると論じ、そのプロセスが作り手の政治的な見方に組み込まれてしまうのではないかと論じたこの文章は、現在でもフェミニズム映画理論を語る上では、肯定的にせよ、批判的にせよ、決して欠かせない考え方として在り続けています。
 また、クリスチャン・メッツおよびローラ・マルヴィは、自分たちが行っている映画について構造的に色々分析することは、映画の楽しみそのものを破壊してしまう行為でもあると言っていました。確かに、フェミニズム映画理論は、ある種の映画の楽しみを奪ってしまうものだと思います。例えば、名作とされる1971年の映画『フレンチ・コネクション』において、主人公の刑事が車越しに自転車に乗っている女性のお尻を眺めているカットの次に、その女性が乗っている自転車が主人公の部屋の中に置かれ、ベッドには裸姿の女性がいる、というシーンがあります。これは男性である主人公が欲情し、そしてそれを晴らすためのセックスに至るまでの行為を、「視る」という行為のみで大胆に語ってみせるのです。こうした大胆な描き方は、日本国内の主な映画批評においては、話を軽快なテンポで進める為の手法であり、同時に映画のみが持ち得る様な大胆さとして称揚されている類のものです。しかしながら、このシーンにおける大胆さの下には、女性はあくまで"男性に視られるべきもの"であり、男性の様に"視るもの"として対等に、つまりは人として扱われていないことが、その構造の中で起きているのです。これに気づいてしまうと、この"大胆さ"は"暴力的"なものに映り、映画自体も気にせず楽しめる様なものでなくなってしまうかもしれません。
 さて、ここまで書いたらわかるかもしれませんが『マルガリータで乾杯を!』は前半のこの部分において、すでに女性を一方的に"視られるべき対象"として置かれることを拒んでいます。何故なら、主人公のライラと他の男性キャラとの関係は、車イスに乗っているか否か、イケメンか否かといった"視る対象"として定めているからです。こう書くとよくわかりますが、ライラは男性に対してとても差別的な見方をしていることになります。ですが、当然ながら、今まで女性がされてきたように、男性を視る対象に収めることがフェミニズム映画理論が目指しているものかといったら、全く違います。では、フェミニズム映画理論が目指しているのはどこなのか。再びあらすじを追いながら説明しましょう。
 ニマとの距離を近づけようと奮闘するライラは、その過程の中で、学生バンド向けのコンペディションで最優秀賞を受賞します。それに喜ぶのも束の間、その授賞理由は、作詞を担当したライラが、障害を背負っているからだと、審査員から説明されます。プライドを傷つけられたライラは、それを慰めてくれたニマに告白しますが、あっけなくフラれてしまいます。ボロボロに傷つくことになったライラは、もうこの学校にはいられない、いたくないと母親に訴えます。そんなライラのもとに、ニューヨークの大学に編入するチャンスが回ってきます。デリー大学にいたくないライラは、母親と共にニューヨークに渡ります。渡った先のニューヨークでもライラは懲りずに、パソコンでのタイピングができるにもかかわらず、教授の配慮によってあてられたタイピング係のジャレッドが、やはりイケメンだったという理由でその申し出を受け入れるなど、相変わらずの面食いぶりを発揮します。そんな中、警察への抗議デモ(アメリカ、特にニューヨークでは、警察の人種差別的な対応が昔からずっと問題にされています)で見かけた、同じ学校に通う女子学生・ハヌムと知り合います。ハヌムはライラよりもさらに複雑で、バングラデシュとパキスタンのハーフで、小さいころから両親に合わせていろんな国を転々としながら生きてきた視覚障害者でした。知性と美しさもあり、オシャレで遊びも知っているハヌムにライラは次第に惹かれ、ついには恋人同士の関係になり、ライラ達は間もなく、一緒に暮らすことになります。
 さて、ここでフェミニズム映画理論の話に戻ります。間違ってほしくないのは、男性のいない女性同士の性愛を描いた物語を作ることが、フェミニズム映画理論の目的ではありません。ここであらすじを追うのを止めたのは、この二人が一緒に住むことを決めた直後に訪れる、あらすじにも載らないような(だからこそ映画を観なければわからない!)、ごく短いカットにこそ、フェミニズム映画理論が重要視しているところのひとつが現れるからです。
 彼女はすでにライラの家に遊びに行くなど、ライラの母からの信頼を勝ち取っていて、まさか同性愛関係になっているなどと夢にも思わない母からは、互いにケアをしあえるという名目で、2人で暮らすことをあっさり承諾します。ライラにとっては、初めて親元から離れて暮らす生活が訪れます。そのライラに、母はお手製のスパイスをタッパに詰め、それぞれのタッパにラベルを貼り、そしてこれから独り立ちにするライラに手渡すシーンがあるのです。
 上記に挙げた70年代の議論から時を経て、1985年に書かれた、テレサ・デ・ラウレティスという人の『女性映画再考』という論文では、そもそも「女性映画はこのように見え、聞こえる。これが女性映画の言葉だ。」という問いかけをすること自体、「女性が社会に「社会」に参画したり、「貢献」することができるのかということを義務的に示すことにもなってしまう」と拒みます。ラウレティスはさらに、「映画に関わるフェミニストの当座の試み」として、 女性というものをある場所に押しとどめようとする境界に対して挑むこと、そしてそうして挑むことによって、その境界を「もっと柔軟、かつ複雑、かつ矛盾するものとして捉えられる」ようにすべき だと説きます。このラウレティスという人は、映画理論に留まらず、フェミニズムについて様々な論文を書いている人で、こうした「境界の攪乱」を積極的に行っていくべきだと説いた「クィア理論」の提唱者としても知られています。クィア理論はフェミニズムの考え方をさらに押し広げて、セクシュアル・マイノリティ、身体障碍者なども含めた、社会から抑圧を受けるすべての人たちを主体におき、マジョリティによる一般化に対する抵抗を試みる為の方法論として知られていたりします。この辺り、かなり複雑な上、それを説いたという『クィア・セオリー』をまだ読んでいないので断定的には論じられませんが、すくなくともこうした「境界の攪乱」という点で、ラウレティスが説いたこの2つの論考は共通しています。少し難しくなりましたが、この「境界の攪乱」はとても重要な点のようです。
 そしてラウレティスは『女性映画再考』で、女性映画の在り方のひとつを示している例として、2人の女性監督のインタビューを取り上げます。1人目のシャンタル・アケルマン監督は自らの作品を、 観客を同じ女性として話しかける様な映画を作っている と述べます。その為に キスシーンや車の爆発シーンと比較すると「映像のヒエラルキーにおいて下位」に位置している、"女性の日常的な仕草" に注目します。色々な観客の姿を想像し、そうした観客一人一人に話しかけるように作っているという姿勢を、ラウレティスは高く評価しています。確かに、マルヴィが『視覚的快楽と物語映画』で論じていたのは、あくまで観客を男性として見立てていたのであり、女性の観客という存在が結果的に無視されている形になっていました。(そうした批判が及んだあと、女性観客にはどのように働いているのかと論じた文章をマルヴィ自身発表しているようです。)それに対し、シャンタル・アケルマンの言っていることは、 観客として存在する女性をまず肯定する ところから始まっているのです。
 恐らくその若さ、しかもインドという人口過密国において、デリー大学に入学出来たり、海外の大学に編入できるほどの高い学力であるライラは、映画内でそういった描写こそないものの、恐らく幼少の頃から学校教育や受験対策を徹底的にしてきたものだろうと思います。現に、ハヌムとの生活を始めたばかりの時、脳性麻痺という身体的に不自由な条件もあり、目玉焼き一つ作るのに大変な苦労をしてる描写もあります。他のあらゆるインド映画でも、"古風な女性像"として描かれる、日常的にサリーを着て、料理上手な母親像をなぞっていもいる母親は、料理について苦労するライラの身を想って、(日本でも死語になりつつありますが)"おふくろの味"を持たせたのでしょう。こうした描写で"母親"を描くことは、決して生半可な想像力によって達成できることではありません。この『マルガリータで乾杯を!』という映画を監督がささげている相手として、不慮の事故で亡くした自らの息子の名前を挙げたこととは無関係でないように思います。ライラという若い女性の奔放さを描く一方で、娘を想う母親の姿を描いているのは、前段で書いたシャンタル・アケルマンの、「観客を同じ女性として話しかける」といった姿勢と相通ずるものではないかと思います。
 映画はここで終わりません。ライラの身には、さらなる急展開が待受けます。ライラはハヌムと共に、インドへ帰る計画を立てます。その最中、その場の成り行きでライラはジャレッドとセックスをしてしまいます。(このジャレッドとのセックスと、ハヌムとのセックスの描写の違いも注目ポイントなのですが、ここでは詳細に論じることはやめておきましょう。)ハヌムに対して後ろめたさを覚えながらも、ライラは一緒にインドへ帰ります。ライラには、この里帰りで一つの目標がありました。それは、母親に自分ノセクシュアリティを打ち明けること(カムアウト)です。ライラはニューヨークで、ハヌムがすでに両親にカムアウトしていたことを知ります。両親からの反発はすごいものだったと語るハヌムですが、一方で「嘘をついて生き続けるのは嫌だった」と言います。それを聞いてハヌムが応援する中、いよいよライラは母に対してカムアウトしました。母の答えは「気持ち悪い・・・」という強烈な拒絶の一言でした。そして、ライラはさらに、ハヌムにもジャレッドとセックスしてしまったことを打ち明けます。ハヌムは怒り、結果的にライラとは別れてしまいます。
 ここでもう一つ、比較的最近の「女性映画」に関する文章として、2006年にパトリシア・ホワイトという研究者が日本で講演した時の『アートシネマとしての女性映画 トランスナショナル・フェミニズムとニッチ映画』という講演録を紹介したいと思います。このパトリシア・ホワイトは、映画の作品の中での出来事にとどまらず、女性映画がハリウッドや世界中の映画興行において、どのような位置に存在しているか、ということに注目して研究している方で、この講演では、それこそ『マルガリータで乾杯を!』のように、女性映画が国際映画祭で取り上げられることについて論じています。題名にある「トランスナショナル」という言葉は、国境を攪乱するといったような概念であり、やはりここでも「境界の攪乱」が重要なポイントになってくるということです。この講演では、クレア・ジョンストンの時代から時代を経て、デジタルでの映画製作も可能になった現在の状況を踏まえて、国際映画祭などのアートシネマが必要とされる"マーケット"において、どのような女性映画が必要とされているのか、また、 一言で「女性」といっても、それぞれの国や地域、文化的な背景によって置かれている立場が根本的に違うこと、そして女性映画もその映画が上映される状況によって意味合いや立場が変わってくること を論じています。この映画の中のライラとハヌムも、ニューヨークでは部屋の中に引っ越しの業者がいる中でキスしたりとイチャイチャしているのですが、インドに来たら(片方の実家ということもあると思いますが)、食卓の下で互いの足を突っつき合うなど、極めて控えめなものになっているように、国境をまたぐことで振る舞いが変わっています。では、ニューヨークに住んでいたほうが良かったのではないか、なぜそこで終わらなかったのだ、というのは、セクシュアル・マイノリティ、あるいは先ほど取り上げたクィアに属する人々に対し、「封建的な田舎ではなく、開放的な都会に住もう!」といったようなキャンペーンを展開されることをメトロ・ノーマティヴィティ(大都市規範性、要はあるべき地域コミュニティの形は大都市、しかもアメリカやヨーロッパの大都市にこそあり、そこ以外は遅れたものなので離れるべき、とする考え方。)として、批判されています。だから、この映画が目指すのはまた、「インドでたまたま障碍者バイセクシュアルとして"生まれてしまった"主人公が、"自分を認めてくれる"大都市に居場所を見つけた」という話にもなっていない、ということです。
 先ほど挙げた『女性映画再考』という論文で取り上げられている、もう1人の監督であるリジー・ボーデン監督の、あるインタビューが引用されています。様々な人種の女性がラジオ局を乗っ取る『ボーン・イン・フレイムズ』という映画に対してインタビュアーが、この映画を観た観客たちは居心地の悪い思いをするのではないかと述べたことに対し、 「白人の観客に向かって「あななたちはここに属していない」と言うのではなく、いろいろな考え方、あるいはさまざまなものの言い方や表し方に対する受け皿としての観客を考えていました。」 と述べています。そうした「いろいろな考え方」を持つ観客の中には、もはや国境を越えた人々がいることを想像する必要がある、ということです。ここからパトリシア・ホワイトは、また別の講演録『トランスナショナルな女性映画』において、「アメリカが中心で、その周縁といった観念を払拭」する概念として、「ワールド・シネマ」という言葉を取り上げます。 現在までフェミニズム映画理論が行ってきた作業の集積は、性別という枠を超えて、国境という「境界」すら攪乱しよう という地点にまで達しているようです。
 さあ、映画の結末まで辿ってみましょう。ライラはハヌムとは別れ、母は結局病死してしまいます。ライラは強い喪失感に苛まれます。しかし、ライラは何もかも失ったわけではありません。母との思い出は歌として残り、ハヌムとの思い出はマルガリータの味と共に残ります。大人になったライラは自分自身を祝福します。浮気症で向こう見ずでたくさん傷ついたり失敗したりしても、自分自身を肯定し、鏡に向けて満面の笑顔を浮かべるライラの姿には、直情的になってなにかと失敗してしまう僕自身も肯定されているような優しさを感じました。
 今まであらすじと一緒にいろんなフェミニズム映画理論と女性映画の議論を追ってきましたが、まだまだ僕自身理解しきれないことがあるほど、かなり複雑な議論になっています。もしかしたら、というより恐らく、これまで取り上げてきた理論の解釈にも誤りがあるかもしれません。(もしそういった場合があるなら、教えていただけるとありがたいです・・・)

 しかし、そうした複雑さは、メッツやマルヴィが言ったように「映画の楽しみを奪う」ものである一方、別の映画の楽しみに気づくことができるものでもあります。この映画のラストシーンがもたらす優しさは、ラウレティスが言うように、矛盾すら内包する複雑さがもたらしたものだと思います。なぜなら、映画を作るのも、映画を観るのも、また同じ人であるからです。そして、人というものは、常に矛盾を抱えている複雑さを持っている生き物だからです。そして、この『マルガリータで乾杯を!』は、まぎれも無くそうした矛盾すら、肯定してくれている映画だからです。

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