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大人部ブログ

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男性学的視点から観た『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

福原拓海 映画 コラム ブックレビュー

 福原です。

 突然ですが、皆さんは「男性学」という言葉をご存知でしょうか・・・と、僕自身最近まで知らなかったくせに、知った風な書き方をしてしまいましたが(苦笑)。以前に大人部会をやった時、僕がジェンダーセクシュアリティに対して興味や関心を持つプリミティブなものはなんなのか、という話になった時、その場でネットで色々調べたらこの「男性学」という言葉に出会いました。

 さらに調べたところ、田中俊之さんという武蔵大学助教授を務める方の書籍『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』を見つけたので、読んでみました。

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

♦『男性学』とは?

 

  では、その男性学がどういうものかというと、先月主催した大人部パーティー でも作品を上映させてもらい、以前にもブログで取り上げたライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の発言の意味を探ることから見えてきます。その発言というのは「一番抑圧を受けているのは男性だ。男性が解放されなければ女性の解放だってあり得ない。」というものです。


 このファスビンダー監督の発言がいつのものかわかりませんが、当然ながら存命中のものなので、30年以上前のもの、ということになります。
 ドイツでは現在も内閣に「高齢者・女性・青少年大臣」というポストがある通り、女性に対して社会的な支援が行われています。社会的な支援が行われているということは、それを必要としない人と比べれば、抑圧を受けているはずです。ところが、この内閣のポストの名前で並べられている属性から除外されているのは、若年~壮年の男性ということになり、「抑圧を受けている」とされている対象ではないはずです。では、何故ファスビンダーはこのような言葉を残したのか。それは、このように女性が社会的な支援を必要とされるもの、つまりはフェミニズム的な思想が広がっていることが関係あります。
 女性が抑圧を受けてきた歴史を世界的に紐解いていくと長大になってしまうので詳しくは割愛しますが、先日イギリスでの騒然としたプレミア上映が話題となった『Suffragette』(日本語に直訳すると「女性参政権運動」の意)が20世紀初頭のイギリスを舞台にしている通り、歴史的に女性は抑圧を受け、そしてそれを克服するための運動が世界各地で行われてきて、近年でも女性差別が激しいインドの農村部での女性解放運動などが話題を呼んでいます。そうした解放運動を通して、女性の生き方というのは多様性を認められてきました。ただ、一方で男性の生き方というのは、女性のそれと比べて認められていない、というのが男性学の基本的な姿勢です。これが、男性学フェミニズム以降の学問と言われる由縁です。
 確かに、女性を抑圧してきたのは男性、あるいは男性を上位に置く男尊女卑社会の価値観にほかならず、男性よりもずっと自由が制限されてきました。しかし、「女性は男性と対等の立場であるべき」という思想が広がりを見せる一方で、「男性は決して女性の下の立場になってはいけない」という思想を拭い去ることはできていないというのが実状です。性別によって「下の立場であるべき」という思想を排除するのであれば、同時に「上の立場であるべき」という思想も排除しなくてはなりません。こうした男性にかぎらず、性別に対して社会が課してくる「○○であるべき」という考え方こそ、ジェンダーと呼ぶのですから。
 ただ、この男性学を語る上で気をつけなければいけないのは、例えば電車の女性専用車両を「男性差別」「逆差別」と呼んで糾弾する運動とは異なります。余談にはなりますが、性犯罪者の内8割を男性が占めているという現状では、男性と隔離されてる環境の方が、女性は安心できるし、我々男性も、『それでもボクはやってない』で取り上げられた、痴漢冤罪というものに怯えなくて済むことになります。もちろん、性犯罪者の8割は男性であっても、すべての男性が性犯罪者ではないので、いつかはこうした構図から抜け出さなくてはいけないのですが、女性専用車両を施行するより、はるかに時間がかかることになると思います。性犯罪者という存在もまた、そうしたジェンダーにより、実態の研究や適切な対処が行われにくくなっている存在でもあるからです。(ライターの田房永子さんによる、一連のルポに詳しいです。 )被害者の不安や恐怖を取り除いた後、こうしたジェンダーをゆっくり時間をかけて社会が克服していく、というプロセスの順序立ては、個人的に誤りでないと思います。
 『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』は、そうした女性との相対的な立場の差に苦しむ人たちへ、「そんな時代遅れの"普通"を追いかけるのはやめろ」と呼びかける本となっております。特に著者の田中俊之さんが本書で呼びかけているのは、「(デートやプロポーズ、告白などの恋人関係の形成において)男性が女性をリードすべき、という考えはやめたほうがいい」ということです。リードすべき、というのはつまり、恋人同士という本来対等であるべき関係において、上下関係、ヒエラルキーを求めることです。恋愛というごくプライベートな事象から、こうした性別によるヒエラルキーの形成を行うことをやめてみよう、それこそが、男女の格差に苦しむ人を減らす第一歩になる、というようなメッセージが、本書には込められています。


♦『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のウォー・ボーイズについて 

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 さて、それではタイトルにも書きました『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を、この男性学的な考え方から観てみることにします。まず、そもそもの話として「男が上位であるべき」という考え方で、一体どの男性が損をするのか、という問いに答えなければなりません。それは明確に、戦争へ行く男性である、と断言できます。その観点から言うと、"男性ジェンダー"によって一番抑圧を受けているのは、言うまでもなく敵役のイモータン・ジョーの手下で戦闘要員であるウォー・ボーイズ達でしょう。
 
 たしかに多くの男性の肉体は、女性より筋力が付きやすく、機関銃などの重いものを運ぶにしても便利です。しかし危険なのは、この「便利」という考え方です。イモータン・ジョーの砦にいる女性たちは、魅力的な肉体を持った子産み女と、肥えさせられた母乳女として、明確に最適化されて役割を与えられ、管理されています。しかし、子産み女たちが抜け出した部屋に書かれていた「WE ARE NOT THINGS」という言葉の通り、男女に限らず人はモノではありません。利便性を基準に管理されるべき、という思想こそ、こうした人をモノとしてあつかい、尊厳を傷つける第一歩です。
 もちろん、露骨に「お前は使い捨てのモノだ」と言われて、使われたいと思う人はいません。使う側は狡猾に、「使われる喜び」を覚えるように仕組みます。そのウォー・ボーイズの中で奇しくもマックス達と行動を共にすることになる、ニュークスが高揚しながら言っていた、「英雄の館」という存在はそのうちの一つでしょう。彼らウォー・ボーイズが死を恐れず、むしろイモータン・ジョーの為に命を捧げることを誇りに思い、「俺を見ろ!」と誇示しているあたり、死後の世界のようなものとして、彼らに語られているものなのだと思います。イスラム原理主義組織が聖戦に殉じた(≒自爆テロに及んだ)後、待受けているという祝福の世界、あるいはかつての我が国である大日本帝国が、国家神道を推し進めていた時に国民に説いていた、戦死したものが英霊軍神として祭られ、他に戦死した仲間たちを会える場所として設けた、靖国神社にも似た構造のものだと思います。また、上記の子産み女やウォー・ボーイズの肉体に満たないものを砦の下へ置き、ウォー・ボーイズ達を鼓舞したり、ジョー自身を神格化するために歓声を上げる大衆として配置させているのも、その一例でしょう。極めて良くできた管理システムです。
 また、現実に男尊女卑の価値観が根強いとされる国、とくにアフリカやアジア諸国においては、企業の管理職に女性が就くことが珍しくなかったりします。僕が観たナイジェリアのラブコメディ映画『恋するケータイinラゴス』でも、企業の社長や会長役に、女性が配役されていて、とても驚きました。


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それはなぜかといえば、男性を武力や軍事力として用いて、次々と紛争で死んでいる為、戦場へ行かない女性が企業の担い手になるしかない、という事情があるようです。そうした紛争に巻き込まれて亡くなっている多くの男性たちも、自分のことをまさか「使い捨て」だとは思っていないでしょうし、使っている側もそんな意識で使っていることもないでしょう。イモータン・ジョーのように、もはや誰か個人の意思によって操作されているのでもなく、使う側も使われる側も構造の中に巻き込まれているからこそ、「抑圧されている」というわけなのです。これで男性学が批判的にとらえている点というのが見えてきたと思います。つまり、「男尊女卑という形で社会体制が男性を上位に置いたところで、結果的には女性同様、国家などの支配体制によって都合よくつかわれること」です。しかも、女性のそれと違ってさらに残酷なのは、自らの死に向かって突き進むような生き方を、至上のものして提示しているものが多いのです。日本でも先に取り上げた靖国神社や、遡っても江戸時代に武士の心得として書かれた『葉隠』という書物に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とある通り、男尊女卑の行きつく先は"誉れ高き死"という男性ジェンダーなのです。どちらが上位で、どちらが下位であっても、結局はものとして使われることになるのです
 ニュークスは、再三にわたって子産み女たちから「お前は使い捨てなんだ!」と言われても聞く耳を持とうとしませんでした。しかしその後、ジョーの前でヘマしたことを悔いて、本来敵であるはずの車の中でうずくまってしまいます。社会からの承認を託していたニュークスは同時に、社会からハシゴを外された瞬間、生きる目的も死ぬ目的も失ってしまったのです。多様な生き方を選べないことは同時に、その唯一の生き方を見失った時、悲惨な結末を辿ることになってしまいます。日本において男性の自殺率が女性の2倍以上にも及んでいるのも、ひとえにこうした生き方の多様さが、男性に認められず、"誉れ高き死"を強いてきた結果なのだと思います。ニュークスはその後、ジョーの為に命を投げ出す選択をやめます。その後ニュークスは生気を取り戻したかのように活発に動き回ります。ニュークスには別の生きる道が思いもがけず訪れましたが、もし自分がニュークスと同じ目に遭ったとしたら、どうなっていたでしょう。そうならないためにも、色々な生き方を認めるという上ではまず、自分自身を許すことが大切だと説く田中俊之さんのこの本のような考え方に出会うことは、とても大切だと思います。

 

【追記】

d.hatena.ne.jp

 こちらに『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ついて書き足りなかったことを書きました。