大人部ブログ

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【雑記】女装カルチャーは消滅するか

ニューハーフプロパガンダのホームページに、こんな内容のことが書かれていた。

「女装カルチャーは女装カルチャーの消滅に向かっていくべきである」
「マイノリティがマイノリティと呼ばれない環境がマイノリティにとって住みやすい環境である」


マイノリティの運動が到達地点としているのはPC(ポリティカルコレクトネス。政治的正しさ。差別のない、そうあるべき平等の状態。)である。女装カルチャーが消滅し、女装していてもマイノリティと呼ばれない社会、つまり女装していることが特別気にもとめられなくなる社会というのは、実現すべきPCのイメージに近い。

どのようなマイノリティにしろ、差別をされたくない、マイノリティと呼ばれたくない、と叫べば叫ぶほどマイノリティであるという自我の輪郭を意識することになるし、世間はその人々がマイノリティなのだという印象を強めることになる。
以前、ヘイトスピーチの問題についての研究のために排外的な運動をしている人にインタビューをしたとき、部落問題についてこのような内容のことを言われた。
「多くの人はもうとっくに被差別部落があったことなんて忘れている。それなのに、部落の人たちが私たちは差別されてきたのだと宣伝する。そうすれば、この人たちは差別されている人たちだと意識するようになるでしょう。そこから新たな差別意識が生まれる。差別だ差別だと騒いでも逆効果だとしか思えない。」

ニューハーフプロパガンダに対して、件のインタビューをさせてもらった彼と同様の反応はあることだろう。「ニューハーフをプロパガンダすることで、逆に女装カルチャーは特殊な文化となり、少数派のものであるという印象を強めるのではないか」と。

あらゆる差別は無知と偏見から起こる。「あなたたちの抱いているイメージは間違いだから本当の姿を知ってほしい」という思いを伝えるためには存在を認知してもらわなければはじまらない。しかし、現実には多くの人は「この人たちは差別をされているらしい」と認知するだけに留まり、その印象がさらなる偏見を生む。どのように差別されているのか、その扱いがなぜ差別なのか、わざわざ考えるのは人権意識の高いごく一部の鋭い人たちだろう。それは多くの人=マジョリティでなくとも同じだ。あるマイノリティであってもその問題の当事者でなければ、別のマイノリティに関心を持たないこともあるだろう。
ならば、ニューハーフプロパガンダは差別を助長するイベントだから批判すべきだということになるのか?

しかし、ニューハーフプロパガンダはプロパガンダと銘打ってはいるが文化の現場だ。政治運動の現場ではない。ニューハーフが世間にニューハーフへの差別を克服するように啓蒙するための場ではない。そういう場だとしたら「ニューハーフはあなたたちと変わらない普通の人間です。女装も普通のことです。」と主張しなければならないだろう。
でもニューハーフプロパガンダでそんなことをしてもつまらない。ニューハーフプロパガンダに集まる人はみんなニューハーフや女装子に興味関心がある。それはニューハーフや女装子をかっこいいとか可愛いとか美しいとかエロいとか楽しいとか物珍しいから気になるとか思っているからだ。だからニューハーフや女装子はぜんぜん普通ではない。特別な存在だ。しかし、そこにいるニューハーフや女装子たちはそれを差別だと拒絶しない。むしろ全力でお洒落をしたりパフォーマンスをしたりして楽しませてくれる。

まずは、「特殊なカルチャー」「マイノリティ」への無邪気な好奇心と憧れを抱かせること。それは、なんとなく差別されていることを認知させて直接的に普通の扱いを望むことよりずっとポジティブな興味の持たせ方だ。もっと知りたい、と思わせなければ偏見の克服は始まらない。このように文化からマイノリティが存在を知られ市民権を得ていくことは、権利運動によって市民権を得ることよりも自然で、民主主義に現実的に適合しているのではないだろうか。

さらに、ニューハーフプロパガンダにおいて私が良いなと感じたことは、そこにいる参加者たちには被差別意識を表明する必要ないということだ。
私と一緒にいた大人部部員の福原さんは、はじめて出会ったニューハーフや女装子を前に、セクシャリティジェンダーへの関心から話を切り出そうとして悪戦苦闘していた。このことから、そこで楽しんでいる人たちがマイノリティであることについて語ることを目的にはしていないし、「セクシャルマイノリティ」という抽象的な枠組みではなく、ニューハーフや女装子への具体的な関心について語ることを求めているのがわかる。セクシャルマイノリティがそこにいることが前提条件として通用する空間で重要なのは、マイノリティ問題への意識の高さではなく個人の嗜好からはじまる人間関係だ。それはまさにニューハーフや女装子がマイノリティと呼ばれない小さな社会の実現だ。
逆に、偏見にぶち当たったのは私たちのほうだった。誰からも「カップルですか」と尋ねられ、そのたびに否定しなければならなかった。マイノリティであるニューハーフや女装子のステレオタイプも垣間見えた。こうした気付きも得られる空間なのだ。


「ニューハーフをプロパガンダすることで、女装カルチャーは特殊で、少数派のものであるという印象を強めてしまう」としても、そのことはむしろ「女装カルチャーの消滅」「マイノリティがマイノリティと呼ばれない環境」への前進の可能性を秘めている。だからやはりニューハーフプロパガンダは「プロパガンダ」なのだろう。
しかし、そうなるためにはニューハーフや女装子がマジョリティに無邪気に期待される「ニューハーフ」「女装子」像をただ演じて消費されることに終わってはならない気がする。彼女たちには何より自分らしくいることを忘れないでほしい、と願う。とともに、彼女らに楽しませてもらう側の私も彼女たちが自分らしくいられるようつとめたい。

不明