【レポ】渋家縄会vol.1 ~縄の起源、フェティシズムの思想史~
悠です。
4月18日(土)、渋家クヌギにて渋家縄会vol.1を開催しました。
この日のテーマは「縄の起源、フェティシズムの思想史」。
『フェティシズム』(ポール=ロラン・アスン著、文庫クセジュ)を中心とした書籍の読み込みから、「縄」にむけられる「フェチ」の精神性を分析するのが目的。
日本に古来から存在する「縄」。
神社の注連縄に代表されるように、ある特殊な意味性をもって使われてきた縄という素材が、緊縛のために好んで利用されるようになった理由について、フェティシズムの思想史を知ることが大きなキーとなるのでは。
そんな発想からこの本を選びました。
この本では「フェティシズム」の用法をフロイト以前以後で大別し分析しています。
今回はフロイト以前。
ヒューム、カント、ヘーゲル、コント、マルクス、ニーチェ・・・
数々の哲学者が、民俗学者のド・ブロスが発明した「フェティシズム」という概念をどのように把握し援用してきたのか、その歴史を学びました。
偶像崇拝に神の存在を象徴化する役割があるとすれば、フェティシズムとは、宗教的精神性においてより根源にちかい神への「恐れ」という感覚を、モノを擬人化しそこに力強い生命を仮定することで感じることであり、それは象徴化以前のものである。
というのがヒューム、カント、ヘーゲルを経てコントが導き出した「フェティシズム」の要約。
さらにコントは「世界と人間を本質的につなぐもの」とまで言い切ります。
エロティシズムの方法論の一つとしてフェティシズムを捉えている私にとって、その言葉はなんとも含蓄があり、
「フェチって世界と繋がる方法なのかも」
とまで思わせます。
今日「フェチ」という言葉はある嗜好性(もはや「性嗜好」には限らない)を示す言葉になっていますが(私自身も「縄フェチ」を自認しています)、こうしてみると、宗教的精神性から嗜好性へのスライドってあまりにダイナミックで神秘的だと思いませんか?
なぜ精神分析がフェティシズムという概念を必要としたんでしょうか。
そして私にはある別の疑問が浮かびました。
「個人の精神世界で嗜好性から宗教的精神性へ到達することは可能か?」
それらの疑問を解くためにはフロイト以後の「フェティシズム」について学ぶ必要が有りそうです。
さて、本の読解のあとは、自作で緊縛縄を作る方法を紹介。
3分クッキングよろしく、
「はい、コチラがなんの加工もしていない縄。これを1時間茹でたものがコチラ、そして乾かしたものがコチラになります。」
といったように、加工工程ごとに縄を比較してみたり。
また、仕入れ先の違う縄や、染色した色とりどりの縄、新品と使い込んだ縄なども比較。
愛情をかけた分だけ変化する縄の愛おしさをお伝えしました。
そして最後に参加者同士の懇親会も開きました。
縄会の参加者は女性6名男性2名の計8名。若い女性の参加者が多かったです。
懇親会にもほぼ皆さん残られました。
色々なところに話題が波及しましたが、今回参加者が半分以上女性だったり、今月の25,26日にはLGBTのフェス&パレード「レインボープラウド」が開催されるしで、レズビアンやバイセクシャルなどのセクシャルマイノリティーについての話題に花が咲きました。
恥ずかしながら、そこではじめて「パンセクシャル」という言葉を知った私。
面白い議論ができたので、いつか家縄会番外編としてまとめてみたいなと思っています。
次回の開催は5月23日(土)を予定しています。