【告知】渋家縄会vol.2 [フェティシズムの科学~性科学からフロイトまで~]
悠です。
主催イベント「渋家縄会」の告知です。
緊縛やフェティシズムにご興味のある方はどなたでもご参加ください。
今回から3部制にしました。
1部では会場を開放していますので、縄の練習などにご利用くださいね!
渋家縄会vol.2
フェティシズムの科学~性科学からフロイトまで~
日時:2015年5月23日(土)
場所:渋家
参加費:500円(予約制)
使用する縄の本数:1本〜
タイムスケジュール:
1部(15:00~17:00) 会場開放
2部(17:00~19:00) 資料研究、ワークショップ
3部(19:00~) 参加者による懇親会
※各部のみの参加可
内容:
前回に引き続き『フェティシズム』(ポール=ロラン・アスン著、文庫クセジュ)のレジュメを手引きに、「フェティシズム」という概念を巡る思想史について学ぶ。19世紀から20世紀にかけて性科学の領域で援用されたフェティシズムの概念が、フロイト思想のなかでどのように発展されたかを研究する。
ワークショップでは、枕を使って一人でできる簡単な縛りを学びます。
☆中心資料☆
該当頁 p.54-p.109
☆補助文献☆
参加のご予約はshibunawa@gmail.comまで
【お名前(ハンドルネーム可)・性別・人数・参加希望の部・縄の借用を希望するか】
をお書き添えのうえ、ご連絡ください。
※渋家縄会は、「緊縛」「縄」「フェティシズム」といったテーマを学問的かつ体験的に学びたい人たちが集うサロンです。
前半では課題図書をもうけ知識を共有し、後半はワークショップを行います。会の終了後は参加者による懇親会を開きます。
これまでの様子→渋家大人部ブログのカテゴリー「渋家縄会」
主催:渋家大人部(代表 悠レイカ)
セクソロジーの不足と隠蔽されるSMの暗部
※SMをテーマにした華やかなイベントが各所で開催されている。インターネットの普及以降、飛躍的に増加した。
※私がライターを務めるフェチポータルサイト
【雑記】女装カルチャーは消滅するか
ニューハーフプロパガンダのホームページに、こんな内容のことが書かれていた。
「女装カルチャーは女装カルチャーの消滅に向かっていくべきである」
「マイノリティがマイノリティと呼ばれない環境がマイノリティにとって住みやすい環境である」
マイノリティの運動が到達地点としているのはPC(ポリティカルコレクトネス。政治的正しさ。差別のない、そうあるべき平等の状態。)である。女装カルチャーが消滅し、女装していてもマイノリティと呼ばれない社会、つまり女装していることが特別気にもとめられなくなる社会というのは、実現すべきPCのイメージに近い。
どのようなマイノリティにしろ、差別をされたくない、マイノリティと呼ばれたくない、と叫べば叫ぶほどマイノリティであるという自我の輪郭を意識することになるし、世間はその人々がマイノリティなのだという印象を強めることになる。
以前、ヘイトスピーチの問題についての研究のために排外的な運動をしている人にインタビューをしたとき、部落問題についてこのような内容のことを言われた。
「多くの人はもうとっくに被差別部落があったことなんて忘れている。それなのに、部落の人たちが私たちは差別されてきたのだと宣伝する。そうすれば、この人たちは差別されている人たちだと意識するようになるでしょう。そこから新たな差別意識が生まれる。差別だ差別だと騒いでも逆効果だとしか思えない。」
ニューハーフプロパガンダに対して、件のインタビューをさせてもらった彼と同様の反応はあることだろう。「ニューハーフをプロパガンダすることで、逆に女装カルチャーは特殊な文化となり、少数派のものであるという印象を強めるのではないか」と。
あらゆる差別は無知と偏見から起こる。「あなたたちの抱いているイメージは間違いだから本当の姿を知ってほしい」という思いを伝えるためには存在を認知してもらわなければはじまらない。しかし、現実には多くの人は「この人たちは差別をされているらしい」と認知するだけに留まり、その印象がさらなる偏見を生む。どのように差別されているのか、その扱いがなぜ差別なのか、わざわざ考えるのは人権意識の高いごく一部の鋭い人たちだろう。それは多くの人=マジョリティでなくとも同じだ。あるマイノリティであってもその問題の当事者でなければ、別のマイノリティに関心を持たないこともあるだろう。
ならば、ニューハーフプロパガンダは差別を助長するイベントだから批判すべきだということになるのか?
しかし、ニューハーフプロパガンダはプロパガンダと銘打ってはいるが文化の現場だ。政治運動の現場ではない。ニューハーフが世間にニューハーフへの差別を克服するように啓蒙するための場ではない。そういう場だとしたら「ニューハーフはあなたたちと変わらない普通の人間です。女装も普通のことです。」と主張しなければならないだろう。
でもニューハーフプロパガンダでそんなことをしてもつまらない。ニューハーフプロパガンダに集まる人はみんなニューハーフや女装子に興味関心がある。それはニューハーフや女装子をかっこいいとか可愛いとか美しいとかエロいとか楽しいとか物珍しいから気になるとか思っているからだ。だからニューハーフや女装子はぜんぜん普通ではない。特別な存在だ。しかし、そこにいるニューハーフや女装子たちはそれを差別だと拒絶しない。むしろ全力でお洒落をしたりパフォーマンスをしたりして楽しませてくれる。
まずは、「特殊なカルチャー」「マイノリティ」への無邪気な好奇心と憧れを抱かせること。それは、なんとなく差別されていることを認知させて直接的に普通の扱いを望むことよりずっとポジティブな興味の持たせ方だ。もっと知りたい、と思わせなければ偏見の克服は始まらない。このように文化からマイノリティが存在を知られ市民権を得ていくことは、権利運動によって市民権を得ることよりも自然で、民主主義に現実的に適合しているのではないだろうか。
さらに、ニューハーフプロパガンダにおいて私が良いなと感じたことは、そこにいる参加者たちには被差別意識を表明する必要ないということだ。
私と一緒にいた大人部部員の福原さんは、はじめて出会ったニューハーフや女装子を前に、セクシャリティやジェンダーへの関心から話を切り出そうとして悪戦苦闘していた。このことから、そこで楽しんでいる人たちがマイノリティであることについて語ることを目的にはしていないし、「セクシャルマイノリティ」という抽象的な枠組みではなく、ニューハーフや女装子への具体的な関心について語ることを求めているのがわかる。セクシャルマイノリティがそこにいることが前提条件として通用する空間で重要なのは、マイノリティ問題への意識の高さではなく個人の嗜好からはじまる人間関係だ。それはまさにニューハーフや女装子がマイノリティと呼ばれない小さな社会の実現だ。
逆に、偏見にぶち当たったのは私たちのほうだった。誰からも「カップルですか」と尋ねられ、そのたびに否定しなければならなかった。マイノリティであるニューハーフや女装子のステレオタイプも垣間見えた。こうした気付きも得られる空間なのだ。
「ニューハーフをプロパガンダすることで、女装カルチャーは特殊で、少数派のものであるという印象を強めてしまう」としても、そのことはむしろ「女装カルチャーの消滅」「マイノリティがマイノリティと呼ばれない環境」への前進の可能性を秘めている。だからやはりニューハーフプロパガンダは「プロパガンダ」なのだろう。
しかし、そうなるためにはニューハーフや女装子がマジョリティに無邪気に期待される「ニューハーフ」「女装子」像をただ演じて消費されることに終わってはならない気がする。彼女たちには何より自分らしくいることを忘れないでほしい、と願う。とともに、彼女らに楽しませてもらう側の私も彼女たちが自分らしくいられるようつとめたい。
不明
【レポ】ニューハーフプロパガンダにいってきました!
こんにちは!渋家大人部仮部員の春です。
昨日は大人部部員福原さんと一緒にニューハーフプロパガンダに行ってきました!
私たちはどちらもニューハーフプロパガンダに来たのははじめてだったのでドキドキ、ドギマギ。
結論からいうと、とても楽しかったです!!
24時から05時までって長いかなと思ってたけど意外とあっという間でした。
ノリノリな音楽が流れてるだけでテンション上がるのに、きらびやかで美しい女装子さんやニューハーフさんがたくさんいるという贅沢。
世界は狭いもので、私の働くSMバーの関係者と何度かばったり会ったりしました。
イベントの司会をつとめていたのは、うちの系列店でかつて働いていたなみ女王様。
メンズの姿しか見たことがなかったので、女装姿だと気付きませんでした。めちゃ女装姿がハマってて可愛い!ちょっと桜塚やっくんに似てる。
それから、私の働くSMバーの同僚で、世界的に評価されているAV女優の美蘭さんともばったり。
美蘭さんの掛け持ちしているヘルスのあゆさんが写真を撮らせてくれたり、いろいろお話してくれました。楽しかった!あゆさんはけっこう酔っぱらって乱れててかなりセクシーでした。ちょっと心配になっちゃう。
そんな感じで、知り合いとか知り合いの知り合いと話してなんとか楽しんでいたけれど、初対面の人にはどう話しかけていいかわからない私と福原さんのふたり。。。
そんなチキンな私たちの気持ちを察してか、「春の出逢いまつり」なる友達を作れる時間が設けられていました!
友達がほしい人同士が一対一でローテーションで一分間話すというこの企画。一分間は短すぎてなかなか喋れなくて焦る焦る。それが十何人続くという難易度の高さ……。 しかし、チキンにとってきっかけ作りをしてもらえるのは嬉しい限りです。
それからもアイドルのパフォーマンスやストリップなど華やかなショーが目白押しでした。
次もまたぜひ行きたいなあ~。
これからは初対面の人ともうちょいお話して仲良くなれるように頑張ります!!
そんな出逢い厨の春でした~。
【レポ】渋家縄会vol.1 ~縄の起源、フェティシズムの思想史~
悠です。
4月18日(土)、渋家クヌギにて渋家縄会vol.1を開催しました。
この日のテーマは「縄の起源、フェティシズムの思想史」。
『フェティシズム』(ポール=ロラン・アスン著、文庫クセジュ)を中心とした書籍の読み込みから、「縄」にむけられる「フェチ」の精神性を分析するのが目的。
日本に古来から存在する「縄」。
神社の注連縄に代表されるように、ある特殊な意味性をもって使われてきた縄という素材が、緊縛のために好んで利用されるようになった理由について、フェティシズムの思想史を知ることが大きなキーとなるのでは。
そんな発想からこの本を選びました。
この本では「フェティシズム」の用法をフロイト以前以後で大別し分析しています。
今回はフロイト以前。
ヒューム、カント、ヘーゲル、コント、マルクス、ニーチェ・・・
数々の哲学者が、民俗学者のド・ブロスが発明した「フェティシズム」という概念をどのように把握し援用してきたのか、その歴史を学びました。
偶像崇拝に神の存在を象徴化する役割があるとすれば、フェティシズムとは、宗教的精神性においてより根源にちかい神への「恐れ」という感覚を、モノを擬人化しそこに力強い生命を仮定することで感じることであり、それは象徴化以前のものである。
というのがヒューム、カント、ヘーゲルを経てコントが導き出した「フェティシズム」の要約。
さらにコントは「世界と人間を本質的につなぐもの」とまで言い切ります。
エロティシズムの方法論の一つとしてフェティシズムを捉えている私にとって、その言葉はなんとも含蓄があり、
「フェチって世界と繋がる方法なのかも」
とまで思わせます。
今日「フェチ」という言葉はある嗜好性(もはや「性嗜好」には限らない)を示す言葉になっていますが(私自身も「縄フェチ」を自認しています)、こうしてみると、宗教的精神性から嗜好性へのスライドってあまりにダイナミックで神秘的だと思いませんか?
なぜ精神分析がフェティシズムという概念を必要としたんでしょうか。
そして私にはある別の疑問が浮かびました。
「個人の精神世界で嗜好性から宗教的精神性へ到達することは可能か?」
それらの疑問を解くためにはフロイト以後の「フェティシズム」について学ぶ必要が有りそうです。
さて、本の読解のあとは、自作で緊縛縄を作る方法を紹介。
3分クッキングよろしく、
「はい、コチラがなんの加工もしていない縄。これを1時間茹でたものがコチラ、そして乾かしたものがコチラになります。」
といったように、加工工程ごとに縄を比較してみたり。
また、仕入れ先の違う縄や、染色した色とりどりの縄、新品と使い込んだ縄なども比較。
愛情をかけた分だけ変化する縄の愛おしさをお伝えしました。
そして最後に参加者同士の懇親会も開きました。
縄会の参加者は女性6名男性2名の計8名。若い女性の参加者が多かったです。
懇親会にもほぼ皆さん残られました。
色々なところに話題が波及しましたが、今回参加者が半分以上女性だったり、今月の25,26日にはLGBTのフェス&パレード「レインボープラウド」が開催されるしで、レズビアンやバイセクシャルなどのセクシャルマイノリティーについての話題に花が咲きました。
恥ずかしながら、そこではじめて「パンセクシャル」という言葉を知った私。
面白い議論ができたので、いつか家縄会番外編としてまとめてみたいなと思っています。
次回の開催は5月23日(土)を予定しています。
【告知】渋家縄会 vol.1 ~縄の起源、フェティシズムの思想史~
主催イベントの告知です。
緊縛やフェティシズムにご興味のある方はどなたでもご参加ください。
渋家縄会 vol.1 〜縄の起源、フェティシズムの思想史〜
日時:2015年4月18日(土) 17:00~19:00
場所:渋家
参加費:500円(予約制)
テーマ:縄の起源、フェティシズムの思想史
内容:
『フェティシズム』(ポール=ロラン・アスン著、文庫クセジュ)『緊縛の文化史』(マスターK著、すいれん舎)のレジュメを手引きに、日本における縄の起源と、「フェチ」の語源になった「フェティシズム」という概念を巡る思想史について学ぶ。
ワークショップでは、緊縛用の縄を自作する方法について実践し学ぶ。
※渋家縄会は、緊縛を学問的かつ実践的に学びたい人たちが集うサロンです。
会の前半では課題図書をもうけ知識を共有し、後半では実践的なワークショップを行います。
会の終了後は懇親会を開きます。
☆中心資料☆
『緊縛の文化史』マスターK 著 すいれん舍
☆補助文献☆
『有末剛の緊縛五輪書』有末剛 監修
参加のご予約はshibunawa@gmail.comまで
お名前(ハンドルネーム可)・性別・人数をお書き添えのうえ、ご連絡ください。
主催:
渋家大人部
(代表 悠レイカ)
プレ渋家縄会 第3回レポ
悠です。
さる3月21日(土)に開催したプレ渋家縄会第3回のレポートです!
前回のレポートはこちら
渋家縄会(家縄会)とはこちら
今回のテーマは「現代緊縛史」!
家縄会ではもはやおなじみのテキスト、『緊縛の文化史』(すいれん舍)のレジュメを手引きに、戦後「緊縛」の文化的担い手となった雑誌・映画、そしてそこで活躍した作家やアーティストたちを知り、今日の「緊縛」のあり方を学びました。
キーワードになるのは、なんと言っても「奇譚クラブ」。
前回の家縄会でキーパーソンとなった伊藤晴雨、彼が創出した「緊縛エロス」が大衆文化に溶け込んでいく様を語る上で、この雑誌は欠かせません。
また、もう一つ重要なのは「日活ロマンポルノ」。
もともと、江戸時代の刑罰の一つだった捕縛術。
それが歌舞伎の題材となり、演じられ、今日の緊縛パフォーマンスにまで精錬されたのは、日活ロマンポルノに端を発する緊縛師(縄師)の登場と目覚ましい活躍があってのことです。
また、レジュメ発表の最後では、SMの商業化・通俗化による明暗について思いを巡らし、これから緊縛について学ぶ個々人の姿勢について問いました。
後半のワークショップは前回に引き続き、基本的な「結び」について学びました。
この日の参加者は8名。男女比は半々。
中には緊縛を何年も嗜んでいる人も、この日初めて縄に触る人もいました。
どの業界でもそうだと思いますが、なにか一つのものが世に広まるとき、それは常に功罪半ばの未来をもたらします。
商業化し大衆化することで、緊縛へ臨む個人の不安や葛藤は、ある側面では和らぎます。
しかし、そもそも緊縛で「人を縛る」ことは、「人の自由を“預かる”」ということです。
そのためには、その人を支える「力」が必要です。
だから不安だし、それでもそれを求めてしまえば、悩むこともあって当然です。
また、なにか困難にぶつかったときは、「あの人がやっていたから」という風に他人を頼ることはできません。
「力」は自分の鍛錬で維持するしかありません。
プレ渋家縄会の全3回が終わり、次回からは「本」渋家縄会になります。
この会へ参加するために緊縛経験の有無は不問です。そして、どの人にも「縄」「緊縛」をめぐる重層性・奥深さへの気付きを、私は促してきたつもりです。
その理由は、縄が、それをどう扱うかによって、人を支える命綱にも、首を締め上げる凶器にもなるからです。
だからこそ色々な角度から「縄」を捉えてみる必要がある。
その方法の一つとして、私はこの家縄会を提示します。
堅苦しくなってしまいましたが、プレ家縄会を全て終えて、改めて今後の「縄」との向き合い方を再認識し、
また、参加して下さった方に深く感謝を申し上げたいと思います。
ありがとうございました!
今後も家縄会は月1回のペースで継続していきます。
次回の開催は4月18日(土)です。
ではでは!
【告知】プレ渋家縄会 第3回
悠です。
主催イベントの告知です。
「緊縛」や「フェチ」に興味のある方はどなたでもご参加下さい。
プレ渋家縄会 第3回(全3回)
日時:2015年3月21日(土) 17:00~19:00
場所:渋家
参加費:無料(予約制)
使用する縄の本数:1本(縄の借用をご希望の方は申し付けください。)
※プレ渋家縄会は、2015年4月よりスタートする渋家縄会の前身として試験的に開催するものです。
緊縛を学問的かつ実践的に学びたい人たちが集う会にしていきたいと思っています。
内容:
『緊縛の文化史』のレジュメを手引きに、戦後「緊縛」の文化的担い手となった雑誌・映画、そしてそこで活躍した作家たちを知り、今日の「緊縛」の社会的なあり方を把握する。
また、補縄術の基礎である「結び」について研究し実践する。
※レジュメのコピーをお配りします。
☆中心資料☆
『緊縛の文化史』マスターK 著 すいれん舍
☆補助文献☆
『写真で覚える捕縄術_手にとるようにわかる完成手順』 水越ひろ 著
参加のご予約はshibunawa@gmail.comまでお名前(ハンドルネーム可)・性別・人数をお書き添えのうえ、ご連絡ください。
主催:渋家大人部 代表・悠レイカ
プレ渋家縄会 第2回レポ
悠です。
2月14日(土)、バレンタインに湧き立つ世間を尻目に、第2回目のプレ渋家縄会(以後、家縄会)をやってきました!
今回は、前回学んだ「捕縛術」が芸術のモチーフとして取り上げられ、人々のエロスを刺激するようになるまでの歴史を学びました!
※前回のレポートはこちら
※渋家縄会とはこちら
今回の参加者は10名。
渋家のクヌギで座っての勉強会ともなると、これだけで空間は埋まってしまいます。
男女比は半々。年齢層は20代~40代くらいまで。
などといったキーワードで、近世~近代初めまでの文化史を「緊縛」という文脈に対応させて見てきました。
こちらは会の途中で紹介した江戸川乱歩原作のオムニバス映画、『乱歩地獄』。
いつか試写会もしたいな。
また実技では捕縛術の基礎にあたる「結び」について学びました。
参加者の半分ほどはこの縄会で初めて麻縄に触った方々だったので、あしらい方など試行錯誤されていました。
途中、伊藤晴雨という偉大な芸術家の話をするの中で、
「芸術家は炭坑のカナリアである。
暴力性がアートになるのは、平和というものが多かれ少なかれ社会に存在するから。
本当の暴力の前では、芸術家は黙殺させられてしまう。」
という話しをしました。
最近、フランスの出版社襲撃事件から「イスラム国」による邦人人質殺害など、
巷の情報は暴力性で溢れています。
私にとって家縄会を主催する原動力になっているのは、「暴力性をどう扱うか」という関心だったりします。
そして、その答えの一つが「緊縛」だったりして。
また、自分のそういったスタンスを発信する場が存在できること、そこに平和へのロマンを感じているんです。
・・・話題が逸れてしまいましたね!
なにはともあれ、
慣れない人前での解説、それに使い慣れない言葉の頻出する近世文化史ともあって、舌足らずな場面も・・・。
まさか高卒の自分が人前で歴史について話す日が来るとは予想だにせず。
でも、いちエロティシズム研究家として、フェティシズムについて学べる場をこれからも地道に作り続けていきたいです!
次回は近現代の文化史を「緊縛」という文脈で切り抜きたいと思いまーす!
悠レイカ