大人部ブログ

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【告知】フェチ研 特別編 ゲスト:藤田博史(精神分析医)《映画『13回の新月のある夜に』(ファスビンダー監督)における“倒錯”の精神分析」》

悠です。

 

次回のフェチ研のお知らせです。

今回は「渋家ホームパーティー」というイベント内のいちコンテンツとして開催致します。

(イベント概要はこちらをご覧下さい)

 

今回は精神分析医である藤田博史さんをゲストにお迎えし、映画『13回の新月のある夜に』における“倒錯”をめぐってパネルトークをしたいと思います。

前回に引き続き、映画体験の中から「倒錯」について探りたいと思います。

どなたでもお気軽にご参加下さい。

ご予約はshibu.otona@gmail.com【お名前・性別・人数】をお書き添えのうえ、ご返信ください。

 

 

以下詳細

 

 

フェチ研 特別編

ゲスト:藤田博史精神分析医、『性倒錯の構造』著者)

テーマ

《映画『13回の新月のある夜に』(ファスビンダー監督)における“倒錯”の精神分析」》

 

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日時:2015年9月22日(火・祝) 

時間:19:00-24:00

場所:渋家地下クヌギ

参加費:1,000円(予約制、飲み物・フード込み)

※途中入退場可、再入場可。いつ来て、いつお帰りになっても大丈夫です。

 

 

タイムテーブル

19:00 開場

19:30 オープニングトーク 《映画概要、精神分析の基礎知識》

20:00-22:00 映画上映

22:10- アフタートーク 《主人公エルヴィラの“倒錯”から現代の“性”を考える》

 

パネリスト

藤田博史精神分析医)

※公式ウェブサイト http://foujita.vis.ne.jp/

悠レイカ(渋家、大人部部長)

不明(大人部仮部員)

福原拓海(大人部部員)

 

資料

性倒錯の構造

性倒錯の構造

 

  

13回の新月のある年に [DVD]

13回の新月のある年に [DVD]

 

 

今回のフェチ研によせて部員の福原くんが上映作品についてまとめてくれました。

ご参加を検討されている方は事前に読んでおくと理解が進むかと!

監督ファスビンダーについては福原くんのこちらの記事をご覧下さい。

 

クヌギで開催されるパネルトークの題材となる作品、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『13回の新月のある年に』(1978年)の作品紹介です。  

 

【あらすじ】

 娼婦として生計を立てる女、エルヴィラ。物語は彼女が男装して、ハッテン場で男娼を買おうとするところから始まる。 「女として男を買うよりみじめではない」

 女性にしては大柄な体格で、恋人からも醜く太ったと罵倒される彼女は、かつて妻子を持つ一人の男でありながら、不動産王・アントンを愛してしまったが為に、性転換手術を行ったという過去を持っていた。  自分を愛してくれる者も、愛する者も失った彼女の、最期の5日間の彷徨を描く。  

 

【作品解説】

 本作の監督、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは、70~80年代前半のドイツを代表する映画監督。1982年にドラッグの過剰摂取により生涯を閉じるまで、活動年数の倍以上の長編作品を手がけたという異常な製作ペースもさることながら、一見奇妙に見える演出や、その作品の題材、ストーリーの過激さも特徴的で、同性愛者を公言しながら出演女優と結婚するなど、監督本人のスキャンダラスな言動も相まって、現在でも国内外を問わず多くの支持を集めている。

 本作は彼のかつての恋人であり、自身の監督作にも出演していた俳優、アルミン・マイヤーの自殺を受けて、ファスビンダー自身の手により製作された。製作の他にも、監督・脚本・撮影・編集などもファスビンダー自身が手がけている外、作中でも彼の過去の監督作品の場面や、彼自身のインタビュー映像が引用されているシーンがあるなど、彼のフィルモグラフィーの中でも特にパーソナルな作品である。  

 

【大人部部員・福原のコメント】

 僕が敬愛する映画監督の一人、ファスビンダー監督の代表作の1本です。彼の作品群の中ではキャッチ―な部類には入らないかもしれませんが、彼の映画を語る上では決して避けては通れない作品です。近年に都内で行われた彼のレトロスペクティヴでも、上映作品の内に入っていない、上映機会としてもレアな作品です!

 ファスビンダー監督の作品は、映画ファンの間のみならず、ジェンダーセクシュアリティ研究の題材としても挙げられることも多く、今回のホームパーティーで上映できるのが大変楽しみです!  そもそも僕が大人部に入るきっかけとして、部長の悠さんに「性というものに対して切実さを持って学んだり語り合ったりで出来る機会や場を渋家内に設けたい」という話をしたのですが、その"性に対する切実さ"というものの答えのひとつとして、本作を推薦しました。

 パネルトークでは、本作の他にも、『ニンフォマニアック』、『セックス・アンド・ザ・シティ』、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』、『愛のコリーダ』、『サンダンカン八番娼館 望郷』など今回の上映作品候補として挙げられていながら選ばれなかった作品などについても語れたらと思っています!

 (なお、上映会場の上ではパーティーが行われているので、映画の上映環境としては騒音が気になるかもしれませんが、そこはご愛嬌ということで、どうかひとつ大目に見てください^^;)

 

 また、これまでのフェチ研の様子はこちらをご覧下さい。

 

みなさまのご参加をお待ちしています。 

 

【告知】渋家ホームパーティー presented by 大人部♡

イベントの告知です。

 

大人部の活動拠点、渋家(シブハウス)

そこで毎月開催しているホームパーティーに、大人部がコラボすることになりました!

 

 

渋家ホームパーティー presented by 大人部♡

2015年9月22日(火・祝)

19:00-翌5:00

参加費¥1,000 free food/drink 持込み可 宿泊可

 

●渋家ホームパーティーとは

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「渋家」は、 コミュニケーションを主体とした「場所」であり「集団」です。

メンバーは年齢や職業を問わず、生活や活動も固定しません。

住所非公開の“隠れ家”を拠点に、さまざまなコンテンツ生み出しています。

 

そんな渋家が毎月22日にお届けするホームパーティー!

今月のホームパーティーは「大人部♡」プレゼンツ!

「大人のための“性”教育」を推進する大人部!

大人になった今だから、ちょっと“性”について考えてみませんか?

真面目なだけじゃない、エロオモシロいコンテンツをご用意!

 

渋家といえば「○○がルール」!

受付で○○の部分が言えた方に特製コンドームをプレゼント

 

渋家に来たことがない人はshibuhouseinfo@gmail.comまでお問合わせください。

 

 

 ●大人部とは

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「なんか、みんな性に対して、切実じゃなくない?」

そんな会話をきっかけに始まった、大人のための大人の部活動。

大人だからしっかり向き合いたい、エロティシズム/セクシャリティー/ジェンダー/クィア/ラブ・・

そういったテーマを掘り下げ、「大人のための“性”教育」を標榜しています 

 (ブログ「渋家大人部とは」より)

 

 

♡contents

 

○2階 リビング 

元気のでるfood♡

・ちんぱいプレート

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・チ○コバナナ

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 and more!

 

 

 

○地下 スペース“クヌギ

フェチ研 特別編

ゲスト:藤田博史精神分析医)

テーマ:映画『13回の新月のある夜に』における“倒錯”の精神分析

 詳細は⬇️をご覧下さい!

●パネリスト

藤田博史精神分析医)

悠レイカ(渋家、大人部部長)

不明(大人部仮部員)

福原拓海(大人部部員)

 

●タイムテーブル

19:00 開場

19:30 オープニングトーク 《映画概要、精神分析の基礎知識》

20:00-22:00 映画上映

22:10- アフタートーク 《主人公エルヴィラの“倒錯”から現代の“性”を考える》

途中入退場可、再入場可。いつ来て、いつお帰りになっても大丈夫です。 

 

 

○3階  

グッズコーナー

 

NYOTAIMORI TOKYO  twitter:@nyotaimori_info

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iPhoneケース

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・特製ステッカー

 

 

●LoveToyShop BIRTHDAY

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・Tantric マッサージャー

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・DRESS CAMP コンドーム

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and more!!!

 

 

●作家 REINAさん   web:REINA  twitter:@gore017meido  

・TATOOシール

血の涙、ヤスデ、血の手錠、血の首輪、目玉チョーカー

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・血のガーターベルトタイツ

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・目玉指輪、目玉チョーカー、目玉イヤーカフ...and more!!

  

 

●緊縛師 芙羽忍さん  web:Shinobu Fuwa Official Website  twitter:@fuwa_shinobu 

特製チャリティーステッカー

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※経費を差し引いた額を犬猫保護団体へ寄付しておられます。



【レポ】フェチ研vol.1《暗号としてのフェティシズム、映画『毛皮のヴィーナス鑑賞』》

悠です。

先日、フェチ研vol.1を開催しました。

 

この日のテーマは

《暗号としてのフェティシズム、映画『毛皮のヴィーナス鑑賞』》

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フェチ研の前身である家縄会では、暫くの間ポール=ロラン・アスン著『フェティシズム』を糸口に「フェティシズム」の思想史について学んできました。

民俗学の領域で生まれた「フェティシズム」の概念が、性科学や経済学を経由して、精神分析学の領域でどう花開いたかを紐解く著作です。

 

フェチ研vol.1では、「フェティシズム」の概念を、ウィニコットラカンなど、ポスト・フロイトにあたる精神分析家たちがどのように解釈したかを学びました。

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また、その後に映画『毛皮のヴィーナス』(ロマン・ポランスキー監督)を鑑賞し、これまで学んだ「フェティシズム」を映画体験の中から探りました。

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●映画『毛皮のヴィーナス』について

 

ここで映画の概要を一部引用します。

 

解説 

マゾヒズムという言葉を生んだ、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』にインスパイアされたサスペンス。

メガホンを取るのは、『戦場のピアニスト』などのロマン・ポランスキー

主演は監督の妻でもあるエマニュエル・セニエとマチュー・アマルリック

 

あらすじ

高慢で自信に満ちあふれている演出家トマ(マチュー・アマルリック)は、あるオーディションで無名の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)と出会う。

品位を全く感じさせない彼女の言動や容姿に辟易(へきえき)するトマだったが、その印象とは裏腹に役を深く理解した上にセリフも全て頭にたたき込んでいることに感嘆する。

ワンダを低く見ていたものの、オーディションを続けるうちに彼女の魅力に溺れていくトマ。

やがて、その関係は逆転。

トマはワンダに支配されていくことに、これまで感じたことのない異様な陶酔を覚えてしまう。

 引用元 Yahoo!映画

 

 


『毛皮のヴィーナス』予告編 - YouTube

 

この作品の中で、女優のワンダと演出家のトマは、誰もいない二人きりの劇場で、オーディションと称してマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』の戯曲を演じます。

劇中劇というやつですね。

さて、映画作品について述べる前に、マゾッホの小説について知っておきましょう。

 

 

マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』について

 

解説

「小ロシアのツルゲーネフ」と謳われたウクライナ出身の小説家マゾッホが1871年に書いた中編小説。

彼の代表作であり、そこには「マゾヒズム」の開花が見てとれる。

 

あらすじ

退屈なカルパチアの保養地で過ごすゼヴェリーン(映画ではトマがこの役を演じる)は、そこで彫刻のように美しい女性、ワンダ(同様にワンダがこの役を演じる)と出会った。

まだごく若い彼女は未亡人であった。

ゼヴェリーンはその美貌と奔放さに惹かれ、またワンダも知性と教養を備えた彼を愛するようになる。

自分が苦痛に快楽を見出す「超官能主義者」であることを告白した彼は、ワンダにその苦痛を与えて欲しいと頼む。

そして自分を足で踏みつけ、鞭で打つときには必ず毛皮を羽織ってくれ、とも。

はじめはそれを拒絶していたワンダだが、彼への愛ゆえにそれを受け入れる。

そして2人は契約書を交わし、奴隷と主人という関係になる。 

引用元 wiki

 

19世紀の精神科医・クラフト=エビングが造語した“マゾヒズム”の語源になったのは、他でもない、このマゾッホでした。

 

 

●マダムからミストレス、そして“ヴィーナス”へ

 

映画に話を戻しましょう。

 

映画でトマ演じるゼヴェリーンは、ある幼い頃の体験について、告白を始めます。

 

「毛皮を溺愛する叔母がいたんです。」

 

高貴で堂々とした肉感的な女、そのように見えていた叔母。

その叔母がある日、悪さをした自分を毛皮の上に押さえつけ、樺の枝で折檻をした。

最後に叔母は“ひざまついて懲罰に感謝し足に口づけなさい”と命令し、部屋を出て行った。

 

「あの出来事から、毛皮は私にとって単に毛皮ではない」

 

その体験からゼヴェリーンが導き出したのは

 

「痛みは最も官能的な感覚で、恥辱こそ最高の快楽だ」

 

ということ。

 

この「告白のシーン」を演じるトマは、それがまるで自分自身の経験であったかのような、バツの悪い、複雑な表情をしています。

演出家といえど、男優でもない素人の演技にしては、やけにこの告白が「本物っぽい」のです。

それはなぜなのか。

それは、ゼヴェリーンこそトマが自己を投影する象徴的人物であり、その役を演じることで、自らの嗜好性がどうしようもなく暴露されてしまうからなのです。

 

この映画は、小説の「ゼヴェリーンとワンダ」、映画の「トマとワンダ」、二対の男女を描きながら融解させることによって、新たな「女性崇拝」の記念碑を鋳造する映画なんだ、というのが私の解釈です。

 

劇中劇の中で、ゼヴェリーン(あるいはトマ)からワンダへの呼称が「マダム→ミストレス→ヴィーナス」と、より高位なものへ変化していくところなんて、ホントそれを象徴していると思います。

 

 

フロイトにおける「フェティシズム

 

では、この「女性崇拝」の物語に潜むフェティシズムについても考えてみましょう。

 

フロイトフェティシズムをこう説明します。

 

フェティシズムはエディプスコンプレックスを解決する際のナルシシズム的防衛である」

 

つまり、エディプス期の去勢不安の元となる「母のペニス」の幻想が、「母のペニス」の代用としてのフェティッシュを選び出すのだ、ということ。

もちろん「母」というのは実在の母ではなく、いうなれば「母的な存在」のこと。人間が幼い頃に初めて「愛」を向ける対象のことです。

この映画内では「叔母」がその位置にあたるでしょう。

この映画では、届かぬ叔母への愛が毛皮や樺の木に移行していく「フェティシズム」の成り立ちが、ゼヴェリーンの物語を通して描かれています。

また、このフェティシズムが強調されればされるほど、叔母への届かぬ愛も際立ち、その不運が「女性崇拝」の物語を強化します。

この焦れったい関係性の連続が、女性を人間以上のものとみなす「女神崇拝」にまで高まるのです。

ある愛の欲望が神秘的な体験にまで昇華する、この弁証法的なストーリー展開が、私にはオーガズムの疑似体験のようで、とてもエロかったですね。

 

ここで、ラカンにおけるフェティシズムの解釈について取り上げたいと思います。

 

 

ラカンにおける「フェティシズム

 

ラカンフェティシズム観を捉えるには、まず彼の軸となる思想を学ぶ必要があります。

それが「鏡の段階」という考え方。

生後6ヶ月ごろの幼児は、それまで自他未分だった母との関係が、「想像の鏡」の中に写る自分の像を発見することによって、母から分離される、というもの。

「想像の鏡」というのは、イメージとして世界を捉えるのに必要な領域のことです。

例えば、自分自身のイメージを「想像の鏡」に写して観察すれば、楽しいときには笑顔になり、ムカつく時に口を尖らせることが分かるでしょう。それゆえ、他者に「今、私は楽しい」ということを伝えるために笑い、「今、私はムカついている」と伝えるために口を尖らせるのです。

このように、人は「想像の鏡」に写るものを通じて、自己と世界を結びつけることができるのです。

また、この「想像の鏡」が担うようなイメージの世界を、彼独特の言葉で「想像界([仏]Imaginaire)」といいます。

フロイトのエディプス期における「母のペニス」はこの「想像界」に属すると言えます。

想像上にしか存在しない「母のペニス」を、なにか他の象徴的なもので代用したものが、「フェティッシュ」です。

また、ラカンフェティシズムを、想像界を経由して象徴的対象を選ぶ構造である、と捉えていたようです。

 

ラカンの概念で「ボロメオの結び目」というものがあります。

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これを参考にした上で言い換えれば、フェティシズムは、現実界(言語以前に存在している圧倒的な現実そのもの)→想像界象徴界を特殊な方法で関連づける機構である、と言えます。

 

 

●映画『毛皮のヴィーナス』における2つの「フェティシズム

 

映画『毛皮のヴィーナス』には、大きく2つの「愛」の欲望が存在し、フェティシズム的な構造をとっていると分析できるでしょう。

それは、

 

・ゼヴェリーンから叔母に対する愛

・監督ポランスキーから小説『毛皮を着たヴィーナス』のワンダへの愛

 

後者についてまだ述べていなかったので、最後にそれについて少し書いて、終わりにしようと思います。

ここからの話は私の妄想の域を出ないということを予めご承知下さい。

 

小説上のワンダは、ポランスキー想像界における「欲望」のシニフィアンになっている。

そして、彼の欲望の象徴的な代理は、映画内のワンダなのだ。

それは、ワンダ演じるエマニュエル・セニエが、実際に監督の妻であるという二重構造によってより信憑性を高めます。

この「ワンダ=監督の妻」というメタ構造によって、ゼヴェリーンやトマが監督自身を象徴する人物である、という推測が導き出せるのです。

 

監督のワンダへの愛は、一生叶うことはありません。

だって、ワンダはマゾッホの小説の中にしか存在しないのですから。

 

総じて、この映画は“フェティシストのマゾヒズム的な片思い物語”と言えるかもしれません。

 

 

●最後に

もちろん、この「フェティシズム」の捉え方は全て「精神分析学」に基づいたものなので、それが全てではありません。

今後もフェチ研では様々な観点から「フェチ」について研究していこうと思います!

【告知】フェチ研 vol.1[暗号としてのフェティシズム2、『毛皮のヴィーナス』鑑賞]

悠です。

 

次回のフェチ研(前身・渋家縄会)のお知らせです。

 

ポール=ロラン・アスン著『フェティシズム』のレジュメを発表します。

また、映画『毛皮のヴィーナス』(2013年、ロマン・ポランスキー監督)を鑑賞し、「フェチとはなにか?」を映画体験の中から探りたいと思います。

 

参加希望の方はどなたでもお気軽にお問合わせ下さい。

 

お問合わせ・ご予約はshibunawa@gmail.com

【お名前(ハンドルネーム可)・性別・人数】

をお書き添えのうえご連絡ください。

 

◻︎◻︎以下詳細◻︎◻︎

 

フェチ研 vol.1

テーマ:暗号としてのフェティシズム2、『毛皮のヴィーナス』鑑賞

 

日時:2015年8月22日(土) 

時間:14:00-17:00

場所:渋家地下クヌギ

参加費:500円(予約制)

 

★内容★

 前回に引き続きフェティシズム(ポール=ロラン・アスン著、文庫クセジュ)のレジュメを手引きに、「フェティシズム」という概念を巡る思想史について学ぶ。

 精神分析学上の「フェティシズム」の概念がフロイト以降どのように捉えられているのか、ウィニコットラカンなどの人物を軸に学ぶ。

 また、前回「フェティシズムの美学」において学んだマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』(1871)を原作にした映画『毛皮のヴィーナス』(2013、ロマン・ポランスキー監督)を鑑賞し考察する。

 

☆資料☆

フェティシズムポール=ロラン・アスン 文庫クセジュ(該当頁 p.136-p.149)

映画『毛皮のヴィーナス』ロマン・ポランスキー監督

『性倒錯の構造 フロイト/ラカンの分析理論』 藤田博史 青土社

『毛皮を着たヴィーナス』L・ザッヘル=マゾッホ 訳・種村季弘

 

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酒鬼薔薇はなぜ反省しないのか―『絶歌』を読んで

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者である酒鬼薔薇聖斗こと少年Aを自称する者が手記『絶歌』を出版した。被害者遺族に許可なく出版されたこと、印税を被害者遺族への賠償にあてると明言されていないこと、著者が本当に事件の加害者である証拠がないことなど、出版の倫理に関して数多くの問題がある。そのことについては多くの記事で触れられているが、内容についての考察はあまり見かけない。ここでは、「なぜ元少年Aの手記からは反省が感じられないのか」をテーマに、私が感じ考えたことをまとめたい。

1 元少年Aの苦悩はありふれたものか
2 少年Aの原罪
3 罰を渇望するマゾヒズム
4 なぜ子供はオナニーしてはいけないのか
5 反社会的な変態は死ぬべきなのか
6 死んだところで謝罪にはならない
7 贖罪のために必要な「自己救済」とは


1 元少年Aの苦悩はありふれたものか
ネット上に挙げられた『絶歌』の内容への批判を見ていると、元少年Aは自己陶酔に浸っているとか、文体が幼稚な虚飾に満ちているとかいった過度なナルシシズムを批判するものが溢れている。しかし、私はそこを批判するのは的外れで、少し冷静さを欠いたことなのではないかと感じている。
たしかに、『絶歌』は文学的な比喩表現が少し過剰で読みにくいところがある。それがまるで自らの文章力をひけらかしているようで不愉快に思う気持ちもわからなくもない。しかし、すべてがすべて元少年Aにとって都合の良いことが書いてあるわけではない。とくに、一般的な人間がけして公に晒したくないデリケートな部分である性的なコンプレックスについては、その説明を避けて自らを語ることは不可避だとしてかなり赤裸々に語られている。それは非常に勇気のいる告白であっただろう。
また、元少年Aは自らを特別な存在だと思い込んでいるが本当は凡庸な人間だ、といった批判にも違和感がある。元少年Aがどこにでもいる人間だと言うような人は、生き物を殺すことでしか性的快楽が満たされないほどの「性的サディズム」を抱えて思春期に悩んできた人間をそんなに周囲で何人も見てきたのだろうか。そうした友人から相談をうけた経験でもあるのだろうか。
たしかに、「性的サディズム」の引き金となった愛する者の死はありふれた苦しみの経験かもしれない。しかし、幼い少年Aがその苦しみとの向き合い方のなかで歪んでいったことは、多くの人にとって理解されがたいことだっただろう。そこからくる孤独感を「凡庸」で片付けていいものか。
さらに、未だに元少年Aは殺人をしたことを誇っているとか自慢しているという批判まであるが、これも勘違いではないかと思う。『絶歌』においては反省や謝罪こそまるで伝わらないが、自らが犯したことへの後悔と、自己否定的な感情はかなり色濃い。むしろそこには、殺人の衝動を持たずに生きることが可能な多くの人への激しい劣等感が感じられる。世間の感想とは裏腹に、元少年Aはナルシスティックどころか、健全な自尊心が欠如した人間のように私には思える。

2 少年Aの原罪

『絶歌』からは謝罪や反省の意思が感じられない、という多くの批判には私は共感する。そう感じさせられる理由は主に二つある。ひとつには、出版の動機が被害者遺族や社会に対する責任を果たすことでなく単なる自己救済を目的とする表現欲求であるということ。ふたつには、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し「わからないが、自分が苦しむことになるのでやめたほうがいい」という回答をしたことだ。
しかし、『絶歌』を読んでいると、なぜ元少年Aが本質的に反省することも、被害者やその遺族の気持ちを汲み取ることも、世間が求める謝罪を形式的に表明することすらもできないのか、その謎をとく鍵は掴めそうな気がする。

少年Aの不運は、思春期の性衝動があろうことか「死」だけでなく、「罪悪感」と結び付いてしまったことにあるのではないだろうか。はじめての精通を経験したときのことについて、元少年Aは手記のなかでは次のように自己分析している。

「僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら精通を経験した。僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。その後も僕は家族の目を盗んでは、祖母の部屋でこの“冒涜の儀式”を繰り返した。祖母の位牌の前に正座し、線香をたてる。祖母との想い出を記憶の冷凍庫からひとつひとつ取り出して解凍し、電気按摩機のスイッチを入れ、振動の強さを最大に設定し、それを切腹さながらにぺニスに突き立てる。“穢らわしいことをしている”という罪悪感で快楽が加速する。」

当時の少年Aは、性的なことへの関心も知識もまったくないまま精通を経験してしまった。だが直感的に、自分がしたことがとんでもなく穢らわしい行為だということを感じ取ったという。また、「罪悪感」という表現に表されるように、それが罪であるということも同時に感じ取っていただろう。

3 罰を渇望するマゾヒズム

少年Aは後年になって精神科医に「射精に激痛が伴う」ということを話したことがあり、医者はそれを「性欲に対する罪悪感の表れ」だと言ったという。元少年Aの性的な快楽と肉体的な痛みとの関係について、手記のなかには他にも興味深い独白がある。

「攻撃性のヴェクトルが他人に向かうか自分に向かうかの違いだけで、“サディズム”と“マゾヒズム”はともに「死の欲動」から分離した一卵性双生児である。つまり“MADなサディスト”は同時に“MADなマゾヒスト”でもある。僕とて例外ではない。祖母の部屋ではじめて射精し、あまりの激痛に失神して以来、僕は“痛み”の虜だった。二回目からは自慰行為の最中に血が出るほど舌を強く噛むようになり、猫殺しが常習化した小学校六年の頃には、母親の使っていたレディースカミソリで手指や太腿や下腹部の皮膚を切った。十二歳そこそこで、僕はもう手の施しようのない性的倒錯者になった。」

この「痛み」は少年Aが罪に耐えるために自らに与えた罰だったのではないかと私は推測する。射精に激痛が伴うことで彼の快楽が成立するように、罪への罰に相当する「痛み」を受けたときに彼は、はじめて満たされるのではないか。少年Aの快楽は罪だけでなく罰までからめとってしまったのではないか。
その、罰となる「痛み」を肉体的にだけでなく精神的にも渇望する様子がわかるのが、手記のなかにある被害者の淳さんへの特別な感情についての記述だ。少年Aは淳さんとかくれんぼをしていて淳さんがAを見つけられずに泣いているのを見たとき、その姿を、木登りをしていたAを心配して泣いたかつての祖母の姿に重ね合わせる。

「自分は受け入れられている。自分が何をしても、しなくても、淳君は自分を好きでいてくれる。だがどういうわけか、僕は、自分が“受け容れられている”ことを受け容れることができなかった。あの時祖母にしたように、淳君のほうへ駆け寄って、淳君を抱きしめることができなかった。穢らわしい自分、醜い自分が許容されることに、嫌悪感さえ感じた。」
「僕は、自分が、自分の罪もろとも受け容れられ、赦されてしまうことが、何よりも怖かった。余りにも強烈な罪悪感に苛まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。僕は罪悪感の中毒者だった。罪悪感は背骨のように僕を支えた。それを抜き取られると僕は、もう立っていられなかった。自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐え難い、自分への“冒涜行為”に他ならなかった。憎まれたい。責められたい。否定されたい。蔑まれたい。ひりつくような罪悪感に身悶えしたい。それだけが“生”を実感させてくれる。」

少年Aは、ありのままの自分をすべて受け容れてくれる優しさゆえに祖母と淳さんを深く愛していながら、その優しさに傷つき、罰せられることを求めている。自らのアンビバレントで矛盾した感情への混乱と性的衝動が相俟って、少年Aは「心の闇」を深めていく。
少年Aの攻撃性は、むしろこの罰を渇望するマゾヒズムを基底にしているのではないかと私は感じた。
精神科医の片田珠美は、こうしたAの倒錯について次のように語る。

「逆説的に聞こえるかもしれないが、罪の意識のほうが犯行より先に存在しており、実際に何か悪いことをして罰を受ければ、精神的な負担が軽くなると感じているような犯罪者がいる。罰を誘発するためにあえて「悪い子」になるわけで子供っぽい。」(週刊文春 平成26年6月25日発行)

少年Aは死刑になることを望んでいた。死刑という罰を受けることへの欲望は、殺人という罪を犯すことへの欲望と表裏一体だったのだろう。もし少年Aが本当にすぐに死刑になっていたならば、物凄い快楽の中で幸福に死んだかもわからない。その上、自らが犯したことへの責任を果たしたことにもなる。
しかしそうはいかなかった。Aはこれからも生きて償い、反省を示し、謝罪をしていかなければならない。

4 なぜ子供がオナニーしてはいけないのか
さて、ここで「なぜ、元少年Aは反省しないのか」に話を戻そう。
小さな子供は親に叱られれば素直に悪いことをやめる。それは自分のしたことが悪いと理解したからではなく、絶対的な存在である親に叱られることが恐いからだ。罪と罰は外部から一方的に与えられるものでしかなく、そこに反省はない。悪いことをしない理由は倫理的なものでなく、そのほうが叱られずに済んで楽だという合理的なものにすぎない。
反省ができるようになるのは、自分のしたことが善いか悪いかを自ら考えることが可能になってからだ。自ら問いかけ、考え、意思を持ち、他者と接することではじめて責任能力を持った個人になったと言える。
元少年Aは、事件から20年近くたって、はじめて精通を経験したときの「冒涜の儀式」について告白し、それを「原罪」「小さな小さな罪の原型」と呼ぶ。おそらくそれは罪の核である。しかし、当時の少年Aは、それが「とんでもなく穢らわしい行為」「罪悪」だと直感的には理解するが、それがなぜ穢らわしい行為で、罪悪であるのかについてはおそらく説明ができなかっただろう。それを冷静に考えて理解する前に、罪悪感にのまれてしまったのだ。
しかし、そのことはさして珍しいことではない。性的対象こそ違うが、日本社会に生きる多くの子供は親に隠れて自慰行為を行うし、それが正しいか間違っているかなど考えずにこそこそとし続ける。
大人と子供との間には、なぜか性にまつわるタブー意識がある。大人は子供が水面下で性的に目覚めていることを知りながら、見てみぬふりをして不自然なまでの建前の純潔を演じることを期待し続けるし、子供はそれを受け入れる。大人もまた自身の性的な部分を子供に対して隠蔽したがる。日本社会において性の扱われ方はそういうものだ。
たいていの人が子供のうちは漠然とした罪悪感を覚えつつ自慰行為や性行為をし、大人になると急にわけもなくそれが許され解放されることになる。自慰行為や性行為が悪から善へと転換するその境目を決めるものは年齢だけだ。そこに問いかけや、考えることや、意思などいらない。
そして、今まで性のこととなるとギクシャクしていた大人たちは、子供が成人すると急に結婚と子育てを前提とした異性との恋愛を求めるようになる。しかし、性から逃れることのできない思春期において、表面的な性教育はあっても、性倫理について聞いたり語ったりする機会など与えられない。日本社会全体が、性倫理において責任能力のある自立した個人に成長することを子供に求めないのだ。
こうして空虚な慣習を守ることでしか近代的な性秩序を保てない日本社会において、少年Aのような特異な性的志向に苦悩する子供が、偏見や差別を恐れず大人を頼ることなどあるはずがない。子供に建前の純潔を無言で要求するような社会に、性的マイノリティの子供がいる可能性など想定できるはずもない。そうした子供を平等な存在として受けとめてくれる世界が、「良識ある大人向け」とされるアンダーグラウンドなコンテンツ(元少年Aの場合、彼が共感するシリアルキラーたちについての情報など)しかなかったとしても、何ら不自然ではない。
おそらく、少年Aが幼い頃から強烈な罪悪感を自覚しながら「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」原因は、多くの子供が自慰行為への罪悪感を自覚しながらなぜそれがいけないのかわからないのと本質的に同じなのではないだろうか。それが罪悪であることは直感的にわかるが、なぜ罪悪なのかは思考停止してしまうのだ。それは、社会が子供たちに対して性倫理について考えさせるどころか、曖昧な性道徳によって抑圧することしかできなかったことのツケとも言えるかもしれない。

5 反社会的な変態は死ぬべきなのか
『少年A矯正2500日全記録』の著者、草薙厚子によれば、更生プロジェクトチームに属する精神科医の女性に恋愛感情を抱くことで少年Aは「性的サディズム」からくる殺人衝動を克服したというが、そのことについて『絶歌』では一言も触れられていない。 妻子がいるという噂もあるが、それもネット上の根拠のない噂にすぎない。淳さんの遺体を損壊するときに射精してから2年後に再び射精したと書かれているが、そのときに彼がどのような性的志向・嗜好を持っていたのかは明らかにされない。
ネット上には、性的欲求に根差した殺人衝動を持つ人間を更生することは最初からできないのではないかという意見が多い。しかし、そう言っている人たちは、もし自分の子供が同じような性的倒錯者になってしまったとき、「更生は不可能だから社会のために死ぬべきだ」とすぐに思える自信があるのだろうか。取り返しのつかないことになる前に自身の志向性と上手く向き合いながら社会の中で生きる場所を見つけてほしいとは思わないのだろうか。もし『絶歌』を読んでもそうした想像ができないとすれば、『絶歌』は本当に何の社会的意義もなかったことになるだろう。
快楽殺人を犯すような人間を生かしてはいけない、元少年Aは「悪魔」や「鬼畜」だから殺すべきだ、というように私刑を煽るような書き込みも大量にある。そういった人たちは、『絶歌』を読んでも元少年Aが「自分が死ぬ覚悟があれば人を殺しても許される」という安易な考えがあったことがわからないのだろうか。「死ね」という単純な世間の憎悪は、罪人の全存在を否定すれば正義が守られるかのように夢見ている。しかし、それは少年Aが陥ったのと同じ誤った認識だ。
健全な自尊心と自己肯定感のない人間は他者に共感することも優しくすることもできない。ましてや、人を傷つけたことを反省し謝ることなどできない。「死ね」というバッシングは、「死ぬこと=償い」で済まされるという考えを甘やかす。
とくに、元少年Aの場合は殺人という罪への欲望と死刑という罰への欲望は表裏一体であることに留意すべきだろう。死刑にすることは、彼に殺人を許すことと同意だ。元少年Aにとって自分の死は、被害者の死と同じ意味を持たない。よって元少年Aは死刑になっても被害者の苦しみを味わうことはないだろう。

6 死んだところで謝罪にはならない

元少年Aは手記のなかで、「どうして人を殺してはけないのか」という問に対し、「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことにるから」と回答し、その苦しみついて次のように語っている。

「何より辛いのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を斬り苛む。」

元少年Aは、これを人を殺したことで経験した苦しみだとしているが、同じような苦しみは犯行前から既に抱えている。それは先に引用した、祖母と淳さんへの想いについての独白からはっきりと読み取ることができる。人を殺しても殺さなくても、元少年Aが罪悪感に苛まれ、他人の優しさに傷つき続けたであろうことは変わらないのだ。これは元少年Aの実存的な苦しみであって、「人を殺してたことによって受ける苦しみ」の説明にはなっていない。そもそも、元少年Aにとっては祖母の部屋での自慰行為も淳さんを殺害したこともほとんど同じレベルの罪悪なのだろう。
元少年Aの他者への認識は、「罪悪を含めて全存在を受け容れられるか」「罪悪があるゆえに全存在を否定されるか」の二択しか想定していない。しかし、彼はどちらにも耐えられない。愛する人に罪悪を許されては生きていけないし、愛する人のいる世界を捨てて自らを殺すこともできない。
このような極限状態に追い詰められてしまうのは、「罪悪は許されないが存在は受け容れられる」という状況を想定できないならだ。元少年Aは、複雑に絡み合った自我と罪悪感とを切り離し、罪悪感を「生きるよすが」とすることをやめなければならない。自己の存在否定こそが求められる罰であり償いであるという考えにいつまでも囚われては、罪悪そのものと向き合うことはできないのではないか。

7 贖罪のために必要な「自己救済」とは

出所後も元少年Aの目の前にいる他者への気がかりは、相手が自分の全存在を受容するか否定するかのどちらに傾くかであり、その関わりが共感からはじまることがほとんどない。元少年Aの共感の対象は専ら直接関わることのない文学作品や漫画の登場人物や歴史上の人物や芸能人だ。性的サディズムに苦しみ、偏見を恐れるまでもなく誰に理解されることも期待せず書物などの情報に逃げ込んだ少年時代と変わらない。徹底的に孤独であろうとする生き方からは、元少年Aが他者に理解され共感されるということをどれだけ諦めているかが伝わる。
彼が他者への共感からコミュニケーションをとり、理解されようという希望をもたない限り、人の痛みや苦しみを自分のこととして感じることも理解できないのではないかと私は思う。そして閉ざされた心を開くものは、他者に存在を受容されるということを越えた、他者から共感され理解されたという実感なのだろう。
しかし、それを掴むにはあまりにも彼は歪みすぎた。
モンスター酒鬼薔薇が本当の「自己救済」を果す日まで、彼の反省と謝罪が私たちに伝わる日もきっと訪れない。



不明

第3回 大人部部会レポ(前編)

悠です。

 

先日、第3回の大人部部会を開催しました。

 

ブログでレポートするのが初めてなので解説しますと、大人部部会は月に一度のペースで部員が集まり「性」について話題を共有する場です。

時事や映画・アートの話、イベントについてや、個人的な性体験まで、かなり赤裸々に語ります。

 

部員は常日頃からSNSツールLINEを通じて「性」についての情報交換をしており、部会ではLINEで話されたことをより深く掘り下げることもあります。

 今回話題になったのは、「男性学」と「男女の性の非対称性」。

 

レポの前半では、話題のもとになったLINEの会話から、いくつか抜粋してみたいと思います。

 

 

渋家大人部LINEより

 

《登場人物》

Y(♀、SM好き、嗜虐フェチゆえの悩みを抱える)

N(♂、映画好き、ステレオタイプな男性像を押し付けられ疲労困憊中)

H(♀、学生、性愛と恋愛の不一致を自覚している)

E(♀、部員)

 

  

2015/05/12(火) 男性Nの憂鬱

 

N:なんか俺って本当、男であることに疲れてるのかもしれない。肉体的な話で。

女性に対する神秘性みたいなものや、逆に嫌悪感みたいなものも自覚してる範囲ではあんまりないんだけど、男に関してはネガティヴな印象が強い。だからフェミニスト名乗ってもいられるんだろうけど。

例えばガテン系バイトをすれば人より目立つし頼られるんだけど、一方でフランクな形での性の会話って男女ともに難しいんだよね、ここ(LINE上)でもない限り。多分肉体的なものが起因してるんだよね。SNS上という言語や文字情報のみの方が解放感を得られるのは肉体から距離を置けてるからだと思う。

 

・・・

 

N:わりと自分が勃起してる時に呪わしい気持ちになったりするんですよね。自分のちんこ全然好きじゃない。でかいのに憧れてる奴に会う度にわりと傷ついてるところはある。

 

Y: そうなんだ。

 

N:ちんこに性という意識が集中しすぎてるからね。本当は身振りや服装から思想まで男性という性は潜んでいるのに、ちんこという異形のものに集中する。理想のちんこなんてものは無いはずなのにどこかで理想のちんこを追い求めてるわけです、無意識的に。だから大きいのに憧れる人もいれば、大きいことがコンプレックスになる人もいる。

 

  

2015/06/08(月) ベクデルテスト、映画表現における男女の非対称性について

 

N :映画における性差を測る上でベクデルテストってのがあるんだけど

1.名前のある女性キャラが2人以上出てくる

2.その女性同士が会話をする

3.会話をしている内容が男の話以外である

ってのがある。

この3点をクリアしてるかどうかを、映画において性差をどう扱ってるかという基準にしてるところもあるみたい。もちろん、これらをクリアしてもジェンダーフルな映画もあるけどね。ちなみにベクデルテストの元ネタは漫画。

 

Y:それで言ったら『NINE』は女性の4ないし5人の名前は特定だけど、男性は2名ぐらいだ

 

N:(元ネタになった漫画の画像、以下漫画内での吹き出し引用)

 

「ねえ映画見ない?」

「んー、まあ良いけど、私映画見る時にルールを決めてるんだよね。

1.名前のある女性キャラが2人以上出てくる

2.その女性同士が会話をする

3.会話をしている内容が男の話以外である

この3つ。」

「変なの。でも面白いね。ちなみにそれを満たしてた映画って何?」

「『エイリアン』。女2人がモンスターの話してんの。」

 

Y:ウケるねwwよりによってエイリアンなのかよww

 

N:ね。

でも確かにそういう必然性のあるシーン考えると、女性の背負う社会的背景をちゃんと作り手が設定出来てないと無理なんだよね。良いギャグ。

 

Y:うんうん。

 

N:例えば学校が舞台で女生徒でそれをやるなら、友達同士でどういう関係性か、そしてその女生徒と友達は、それぞれどんな性格でどんな趣味か、クラス内や学年内や部活内での立ち位置をきちんと考えなきゃいけない。

それで言うとバスケ部、あるいはサッカー部のキャプテンとかエースって記号的だよな。

 

・・・

 

Y:ねえ、単純な疑問なんだけど、映画業界で女性が占める割合ってどんなもんなの?

 

N:割合っていうのは?作り手で関わってる人?

 

Y:えーそうだな、監督の総数に対してとか

 

N:そうだねー。みんな雇用契約結んでるわけではないだろうから難しいけど、俺の体感だと2割には満たないんじゃないかな

 

Y:そかー。ベクドルテストもその数字と無関係ではないだろうね。

 

N:女性の若手監督が取り上げられるようになったのはここ最近の話。

俺がこの間観に行った浜野佐知監督が言ってたけど、最も多く商業作品での長編一般公開作品を持つ日本の女性監督の、本数記録は6本。

 

ベクデルテストは決して無関係ではないね。

言うてハリウッド映画で有色人種が主役の映画はまだまだ少数だし、アカデミー賞の女性監督初の受賞者は『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー。2009年受賞。以前として白人男性優位なのが映画界。ハリウッドのね。

 

Y:映画業界のジェンダー史、まとめてほしい!w

 

N:映画界、こと日本においてはジェンダーとかフェミニズムとか無視してきたからその手のやつはジェンダー研究の方では取り沙汰されるけど映画業界の中の人はほとんど無視してるんだよね。無視してないことないだろうけど、無視に近い扱い。

浜野佐知監督も女性として映画を撮る過酷さを書籍として出してたはず。

海外のフェミニズム映画批評読みたい~。

 

Y:Nさんまとめて~ww

 

N:日本で研究してる人と仲良くなれんかな…斎藤敦子さんとか鷲谷花さんとか…。

 

・・・

 

H:ベクデルテストのはなしおもしろい。

同性と異性以外の話題で喋る、という男性の間では当然のことがなぜか女性の間では映画において表現されないって不思議

 

N:そうそう。実は少ない。

そういえば早稲田大学で幻燈っていう映画以前からあったプロジェクション文化のイベントに行ってきたんだけど、そこで当時の風刺画が素材として上映されてたのが、大学の前で女学生の制服を着た女性の顔が、口だけで出来ているという絵があったんだよね。

どういう意味かというと、女は学校へ通うと口ばっかり達者になるという意味の風刺画だったらしいんだけど、これって「女は黙ってるのがデフォ」みたいな価値観があるからそう見られるんじゃないかって思ったんだよね。

 考えてみたら「寡黙」って言葉とかで指されるのはその多くが男性だよなあ

社会によって定められた性規範によって言葉や文字が奪われてるのではないかと考えると、女性が思想とかに興味を持たなくはなってくるのかなと思った。

 

・・・

 

Y:今がどうとかじゃなくて、「女性への社会的圧力」と「思想業界」との関係性の話ね。

 

N:そうそう。女性脳とか女子力とかそう名指されるものの背景。

女は感情的で理論的ではない、みたいな話とか、そもそも理論的な女性というものを許してこなかった社会が先にあるのでは、という考え。ちなみに、感情的であることと理論的であることは決して両立し得ないものではないので、この指摘自体が理論的ではないことから言っても、俺は支持するに値しないと思っている。

よく感情的な女性を指して、結局女はそういう生き物だって話も出てくるけど、それもまだ社会から課されて自覚・無自覚問わず演じている役割から抜け出ていない可能性をぬぐい切れていないというのが現状だと思ってる。でなければ国家ごとに男女の就労状況が変わるわけがない。

つまり、何故そういう社会が形成されたのかってところにぶち当たるレベルにまでまだ日本は達していない。だからそれを探るためにもフェミニズムはもうちょい勢いがあって良いと思ってる。

 

それとは別に役割を演じていることで生まれる様々な事象には是非を問わず見極めていかなきゃなんないし、多分Yさんが興味あるのはその役割を演じているという現状で起きている事象だよね。

 

Y:そうだね。その中でどうエロスが生成されるのかに興味津々。

(私は)割と社会の「女性はこうあるべき」っていう圧力を回避しつつ生きてきたから、今はその圧力で新しい自己が生まれるのが面白い時期かな。

根本的には「女はこうあるべき」っていう価値観は、「女は」っていう語り口も、「~であるべき」っていう語り口も、どっちも糞食らえだと思ってる。

「女は~だ」も「~すべきだ」も絶対的なものなんてないけど、その相対性が他者との関わりの中で一つの認識で一致したりする瞬間は、感激しちゃったりもするんだけど。

 

N:まあなにかを問わず共感て気持ち良いもんですからね。

社会的圧力の後押しを受けながら、誰かと自分とを分断し、こちら側で共感の中にどっぷり浸かるという瞬間の気持ち良さ。その矛先が弱者に向かっているから今の日本は病的なんだよなー。

そういう連中の中には女性を弱者と名指して良いものか、なんて話はあるけど、そうした発言の端々にそう呼んでしまうことの後ろ暗さや露悪性が潜んでるあたり、スケープゴートにされてるのは否めない。

 

 

2015/06/09(火) 性愛と恋愛、マッチョイズムの姑息さ

 

Y:久しぶりにSMしてもいいかな、って(思える)人と会ってきたんだけど、やっぱり相手の想定してたのは「セックスありきのSM」でしかなかった。説明が足りなかったのかなあ。

仕事じゃないし、自分のしたいこと・したくないことに嘘はつけないし、嘘つくのは不誠実だとも思うから、ありのまま「脱ぎたくない、触られたくない、命令も強制もされたくない、ビンタしたいオナニーみたい」って言ったの。でも相手はそれが信じられないみたいで「え、脱がないの?舐めないの?」って、この問答を繰り返すという。「オナニー見てビンタして興奮する」ことの延長線上がなんで「脱いで舐めて挿れる」ことなんだよ!!ばかやろう!!

しかも最後タク代渡す時に「プレイ代金みたいなもんだよね」って馬鹿野郎、売女じゃねえぞ!!!!

あーなんで「好き」の延長がセックスなんだよーー。

ていうか凄い痛感するのが、「SMが好き。セックスは要らない。」って私は表明していて、あたかもそれを受け入れたフリをするくせに、いざそういう雰囲気になったら「え、まじ?」って顔されるのなんなん。なんなん。

そういう倒錯的嗜好は、ある人にとっては本当に「夢物語」なんだろうな。無い物にされてるんだろうな。

 

N:セックスはしたいけどセックス以外のものを共有できないとセックスも楽しくないよねって人だからわかる。

セックスが最重要みたいなのはつまんないよね。

 

Y:セックスできなきゃ(もしくはセックスが想定されなければ)「好き」とみなせないんだったら、大体好きじゃないわ!

なんか、こういうことがあると、「好きってこうあるべき」の圧力に負けて、自分の中の「好き」の気持ちをなかったことにしたくなっちゃう。けど、そんなことしたって自分の人生がツマんなくなるだけだからしないけど。

ていうか、なんで私が謝ってあっちは謝んないわけ?!性癖が倒錯してるからってなんで私だけが立場弱くなるの?!「残念だわ」とか言われたくないし、こっちのセリフじゃっっ!!

 

N:全くだわ

 

・・・

 

E:セックスってなんだろうね

 

N:セックスっつうかさ、性欲が充足される行為だよね。

セックスって普通挿入行為のことを言うんだろうけど、個人的な基準で言うなら、挿入行為の瞬間そのものは性欲の充足には大して繋がってないし、射精も流れの中で上手くできなければ単なる気持ちの区切りぐらいだなあ。

男でも個体差あるから男同士で話しててもわかんねえんだよな。

というより、セックスがセックス以上の言葉、どの様に行われるかが詳細に語られることは少ないね。挿入と射精があり、それぞれがどの様に行われたかってぐらいのディテールしか語られない。男同士でも。

 

Y:私は割と「挿入・射精に関わらないセックス」の話はするかな。周りに理解者が多いから。

やっぱBDSMの概念が必要だ

 

・・・

 

H:前々から気付いてたけど私、性愛と恋愛を結びつけることがすごい苦手だ。そこでみんなと齟齬が生じてしまう気がする。性愛にまつわるアイデンティティや自尊心の問題には興奮するのだけど……。恋愛というか、性欲と愛を上手く結びつけられない。

 

N:イコールではないよなー

 

H:なんか私の場合それが極端というか、前は純粋に性的対象にする相手は自分の快楽のための道具だと思って人間的な交流求めなかったし、それ以外だとお金とか家とか目的ありきのセックスしかしてない。人として特別好きになって恋愛関係になったらそれに伴ってセックスするのは仕方ないみたいなのはあったけれど。

SMに関しても一方的な欲望をぶつけてくる人が好きで、私と分かり合いたいとか愛し合いたいみたいな感じがする人は縁を切ってきた。

 

N:なるほど。結び付けられないだけでなく、相容れないって感じか。

 

H:彼氏とかもまだ友達でもないのにセフレから恋人に格上げしてはいけない人を格上げしてしまったことで葛藤があったりした。

あるとき私にとっての恋愛と世間での恋愛は決定的に違うと気づいて、それからはある意味世間的な恋愛や性に関するコンプレックスからは自由になれました。

なんかでもここ(大人部のLINEグループ)にいるとみんな性愛関係を基底にした関係の倫理とか幸福について語っている感じがする。

 

N:性愛と性欲ってのは別のものってこと?

 

H:性愛関係は愛の基底にはならないというのが私の感覚。

でも性愛にまつわる自我のあり方についてのやりとりとかは愛の基底になりうる。

 

N:愛の話かなりむずい

 

H:単純に異性愛(タチネコといった役割が規定された同性愛も含む)関係によって結ばれる恋愛というのをそんなに信じてない。それって結局、生殖が関係の中心にあるのでは?と思ってしまう。

 

N:互いの役割にはまろうとすることと互いの関係を形作るものはイコールではないってことかな。

男と女だから愛し合うのではなく、愛の持続のために役割を演じるというか。

 

H:愛の持続のために役割を演じることから解き放たれるときが愛の実現なのかもしれない。

 

E:私もそう思うな

 

N:おお、それ(Hの発言)なんか凄いな。

 

E:ていうかその男、女王様を金やチンコやロジックで支配したいタイプの性癖のヤツでは。

 

N:タクシー代出すのを恩着せがましく言うのとか、恋人同士はもちろん、割り切った関係だったとか、たとえ性嗜好がマイナーじゃなかったとしてもあまりにも野暮でしょ

その手の金とかロジックでマウンティングするやつってなんでこう姑息なのかな。

この手のマッチョイズムとかに裏付けされた姑息さとか卑劣さを、そのまま男らしさとか男だったら仕方ないみたいな言葉で語られるのが、男として耐え難いんだよね。

 

 

 

 

このような会話を前提に、今回の部会は開かれました。

 

それぞれが抱えるジェンダーセクシャリティ、そこから派生する社会との齟齬、他者とのすれ違い。

種々の悩みに突破口はあるのでしょうか。その活路の先に「愛」の実現は可能なのでしょうか。

そんな荒唐無稽にすらみえる疑問について、考えを巡らしました。

 

 

「第3回大人部部会レポ(後半)」へつづく

 

 

【シブマガ】アダルトグッズ研究記 第4回「ゴムゴムの実はエロエロの実」【試し読み】

悠です。

渋家の発行する不定期メールマガジン「シブマガ」にて連載中の『悠さんの渋家大人部〜アダルトグッズ研究記〜』。
先日発行されたシブマガ vol.6に第4回「ゴムゴムの実はエロエロの実」を寄稿しました。
 

https://gallery.mailchimp.com/25e7421c21bd64eb2dfb80718/images/e1782d02-0552-46de-a2a4-125a54057a56.jpg

 
以下本文から冒頭のみを転載しました。
全文はシブマガを登録をしてご覧ください!
 
 

『悠さんの渋家大人部〜アダルトグッズ研究記〜』

第4回 「ゴムゴムの実はエロエロの実」  
 
こんにちむらむら!こんにちんちん!あ、こんにちわ!悠レイカです!
 
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[カルチャー/アダルト/渋谷]がキーワードのアダルトグッズ研究企画、4回目は“コンドーム”について書いていきますよ!
 
【ゴムゴムの歴史】
 
コンドーム通称「ゴム」「スキン」。私たちのセックスライフに欠かせないアイテムです。
 
避妊の手段が確立されていない時代、セックスにおいて「快楽」と「生殖」とは分ちがたく結びついていました。
 
今日のセックスがこれほどまでに多様化したのは、「快楽」が「生殖」から切り離され純粋培養された結果だと言っても過言ではないでしょう。その恩恵を授かっている我々ですが、コンドームの果たした成果は数えきれません。
  
そもそもコンドームはいつから今のかたちなのでしょうか?
 
コンドームの原材料であるゴムやポリウレタンが開発されたのは19世紀以降で、それ以前は動物の腸や膀胱、魚の浮き袋などを男性器に被せて避妊していました。(また、その方法の起源は紀元前3000年のエジプトにまで遡れるといいます。)
 
名称の由来になったのは、17世紀イングランド王チャールズ2世の殿医ドクター・コンドーム。好色家の王様のため牛の腸膜を利用した避妊具をこしらえたとか。
 
ゴム精製技術が確立された19世紀以降、日本においては1909年に初のゴム製コンドームが導入されました。
 
現行のシームレス(継ぎ目の無い)タイプがポーランドで特許を得たのが1912年、ラテックス素材のコンドームの出現は1934年で、ラテックスアレルギー向けのポリウレタン製コンドームが日本で発売されたのは1998年。(「ゴム」という通称がありますが、ポリウレタン製のものは材料的には「ゴム」ではありません。)
 
現在の世界シェアにおいて、日本は上位5位にランクインするほどのコンドーム大国
 
…(続く)

 

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【告知】渋家縄会vol.2 [フェティシズムの科学~性科学からフロイトまで~]

悠です。

 

主催イベント「渋家縄会」の告知です。

緊縛やフェティシズムにご興味のある方はどなたでもご参加ください。

 

今回から3部制にしました。

1部では会場を開放していますので、縄の練習などにご利用くださいね!

 

 

渋家縄会vol.2

フェティシズムの科学~性科学からフロイトまで~

 

日時:2015年5月23日(土) 

場所:渋家

参加費:500円(予約制)

使用する縄の本数:1本〜

 

タイムスケジュール:

1部(15:00~17:00) 会場開放

2部(17:00~19:00) 資料研究、ワークショップ

3部(19:00~) 参加者による懇親会

※各部のみの参加可

 

内容:

前回に引き続きフェティシズム(ポール=ロラン・アスン著、文庫クセジュ)のレジュメを手引きに、「フェティシズム」という概念を巡る思想史について学ぶ。19世紀から20世紀にかけて性科学の領域で援用されたフェティシズムの概念が、フロイト思想のなかでどのように発展されたかを研究する。

ワークショップでは、枕を使って一人でできる簡単な縛りを学びます。

 

☆中心資料☆

フェティシズム』ポール=ロラン・アスン 著 文庫クセジュ

該当頁 p.54-p.109

 

☆補助文献☆

フロイト思想のキーワード』小此木啓吾 著 講談社現代新書

 

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参加のご予約はshibunawa@gmail.comまで

【お名前(ハンドルネーム可)・性別・人数・参加希望の部・縄の借用を希望するか】

をお書き添えのうえ、ご連絡ください。

 

※渋家縄会は、「緊縛」「縄」「フェティシズム」といったテーマを学問的かつ体験的に学びたい人たちが集うサロンです。

前半では課題図書をもうけ知識を共有し、後半はワークショップを行います。会の終了後は参加者による懇親会を開きます。

これまでの様子→渋家大人部ブログのカテゴリー「渋家縄会

 

主催:渋家大人部(代表 悠レイカ)

 

フェティシズム (文庫クセジュ)

フェティシズム (文庫クセジュ)

 

 

セクソロジーの不足と隠蔽されるSMの暗部

悠です。
 
先日、SM専門の整体師・ゴールデンさんのサロンにお邪魔してきました。
一見妖艶で煌びやかなSMの世界ですが、その裏では過激なプレイによる事故が増えています。
SMを楽しむためには安全の担保が必要。
この日、プロの方もショー前のメンテナンスに来てました。
 
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 SM整体師・ゴールデンさんのブログ。過去の施術の記録が数多く掲載されている。
 
 
セクソロジー(Sexology、人間の性に関するプラグマティックな知識と技術の科学的な集積)の概念が希薄な日本では、性にまつわる問題は全て個人主義の名のもと孤立化され、不都合は自己責任論で片付けられがち。望まない妊娠も、SMによる事故も、当事者の不注意のせい。
でも、そもそも何に注意すべきかのガイドラインもないものを、どのように注意したらいいんでしょうか?
確かに、性に関しては、身体的個体差や指向・嗜好性の違いのため、おしなべて「こうあるべき」という倫理規範は作り難いのですが、統計的な傾向を一つのガイドラインとして想定することは、それ以降の性的多様性へのまなざしを促すことにつながるでしょう。
 
世にはSMの「楽しく」て「気持ちよく」て「魅力的な」部分が推し出されがちですが、それはそもそも日本の経済が資本主義に基づいている(消費者の購買意欲を扇情することが需要を生む)からであって、市場の中で出会うSMからはその潜在的な暗部が隠蔽されてしまうのです。
 

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※SMをテーマにした華やかなイベントが各所で開催されている。インターネットの普及以降、飛躍的に増加した。

 
セクソロジーの不足が個人の性的孤立を促すこと、そして資本主義に基づいて偏ったSM論が孤立化した個人を蹂躙し搾取する現実に、私は強い危機感を覚えます。
性やSMにおける主体性を獲得するためには、隠蔽された暗部に目を向ける啓蒙が必要だと思います。
 
ネット社会で氾濫するSMのポジティブイメージに疑問を投げ掛け、よりよいSMを探ろうとするゴールデンさんの活動は、SMへの深い愛情に端を発しているように感じました。
 
余談ですが、私のSMアイドルとしての活動はSMや性の主体性を市場の中で取り戻そうとする試みだし、研究家としての活動はそれらを資本主義の外側に投げ込む足掻きだと思っています。
 
これからもゴールデンさんへの潜入取材を継続して、フェチトーキョーや大人部ブログにてレポートしたいと思っています!
 

※私がライターを務めるフェチポータルサイト

【雑記】女装カルチャーは消滅するか

ニューハーフプロパガンダのホームページに、こんな内容のことが書かれていた。

「女装カルチャーは女装カルチャーの消滅に向かっていくべきである」
「マイノリティがマイノリティと呼ばれない環境がマイノリティにとって住みやすい環境である」


マイノリティの運動が到達地点としているのはPC(ポリティカルコレクトネス。政治的正しさ。差別のない、そうあるべき平等の状態。)である。女装カルチャーが消滅し、女装していてもマイノリティと呼ばれない社会、つまり女装していることが特別気にもとめられなくなる社会というのは、実現すべきPCのイメージに近い。

どのようなマイノリティにしろ、差別をされたくない、マイノリティと呼ばれたくない、と叫べば叫ぶほどマイノリティであるという自我の輪郭を意識することになるし、世間はその人々がマイノリティなのだという印象を強めることになる。
以前、ヘイトスピーチの問題についての研究のために排外的な運動をしている人にインタビューをしたとき、部落問題についてこのような内容のことを言われた。
「多くの人はもうとっくに被差別部落があったことなんて忘れている。それなのに、部落の人たちが私たちは差別されてきたのだと宣伝する。そうすれば、この人たちは差別されている人たちだと意識するようになるでしょう。そこから新たな差別意識が生まれる。差別だ差別だと騒いでも逆効果だとしか思えない。」

ニューハーフプロパガンダに対して、件のインタビューをさせてもらった彼と同様の反応はあることだろう。「ニューハーフをプロパガンダすることで、逆に女装カルチャーは特殊な文化となり、少数派のものであるという印象を強めるのではないか」と。

あらゆる差別は無知と偏見から起こる。「あなたたちの抱いているイメージは間違いだから本当の姿を知ってほしい」という思いを伝えるためには存在を認知してもらわなければはじまらない。しかし、現実には多くの人は「この人たちは差別をされているらしい」と認知するだけに留まり、その印象がさらなる偏見を生む。どのように差別されているのか、その扱いがなぜ差別なのか、わざわざ考えるのは人権意識の高いごく一部の鋭い人たちだろう。それは多くの人=マジョリティでなくとも同じだ。あるマイノリティであってもその問題の当事者でなければ、別のマイノリティに関心を持たないこともあるだろう。
ならば、ニューハーフプロパガンダは差別を助長するイベントだから批判すべきだということになるのか?

しかし、ニューハーフプロパガンダはプロパガンダと銘打ってはいるが文化の現場だ。政治運動の現場ではない。ニューハーフが世間にニューハーフへの差別を克服するように啓蒙するための場ではない。そういう場だとしたら「ニューハーフはあなたたちと変わらない普通の人間です。女装も普通のことです。」と主張しなければならないだろう。
でもニューハーフプロパガンダでそんなことをしてもつまらない。ニューハーフプロパガンダに集まる人はみんなニューハーフや女装子に興味関心がある。それはニューハーフや女装子をかっこいいとか可愛いとか美しいとかエロいとか楽しいとか物珍しいから気になるとか思っているからだ。だからニューハーフや女装子はぜんぜん普通ではない。特別な存在だ。しかし、そこにいるニューハーフや女装子たちはそれを差別だと拒絶しない。むしろ全力でお洒落をしたりパフォーマンスをしたりして楽しませてくれる。

まずは、「特殊なカルチャー」「マイノリティ」への無邪気な好奇心と憧れを抱かせること。それは、なんとなく差別されていることを認知させて直接的に普通の扱いを望むことよりずっとポジティブな興味の持たせ方だ。もっと知りたい、と思わせなければ偏見の克服は始まらない。このように文化からマイノリティが存在を知られ市民権を得ていくことは、権利運動によって市民権を得ることよりも自然で、民主主義に現実的に適合しているのではないだろうか。

さらに、ニューハーフプロパガンダにおいて私が良いなと感じたことは、そこにいる参加者たちには被差別意識を表明する必要ないということだ。
私と一緒にいた大人部部員の福原さんは、はじめて出会ったニューハーフや女装子を前に、セクシャリティジェンダーへの関心から話を切り出そうとして悪戦苦闘していた。このことから、そこで楽しんでいる人たちがマイノリティであることについて語ることを目的にはしていないし、「セクシャルマイノリティ」という抽象的な枠組みではなく、ニューハーフや女装子への具体的な関心について語ることを求めているのがわかる。セクシャルマイノリティがそこにいることが前提条件として通用する空間で重要なのは、マイノリティ問題への意識の高さではなく個人の嗜好からはじまる人間関係だ。それはまさにニューハーフや女装子がマイノリティと呼ばれない小さな社会の実現だ。
逆に、偏見にぶち当たったのは私たちのほうだった。誰からも「カップルですか」と尋ねられ、そのたびに否定しなければならなかった。マイノリティであるニューハーフや女装子のステレオタイプも垣間見えた。こうした気付きも得られる空間なのだ。


「ニューハーフをプロパガンダすることで、女装カルチャーは特殊で、少数派のものであるという印象を強めてしまう」としても、そのことはむしろ「女装カルチャーの消滅」「マイノリティがマイノリティと呼ばれない環境」への前進の可能性を秘めている。だからやはりニューハーフプロパガンダは「プロパガンダ」なのだろう。
しかし、そうなるためにはニューハーフや女装子がマジョリティに無邪気に期待される「ニューハーフ」「女装子」像をただ演じて消費されることに終わってはならない気がする。彼女たちには何より自分らしくいることを忘れないでほしい、と願う。とともに、彼女らに楽しませてもらう側の私も彼女たちが自分らしくいられるようつとめたい。

不明