読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大人部ブログ

初めての方はカテゴリより「はじめに」をご覧下さい。

映画『百合祭』を観ました!

 超お久しぶりの更新です。福原です。長い事更新しておりませんでしたが、相変わらず部員一同、相変わらず性について考えたり勉強したり実践したりという毎日を送っており、互いに情報を交換したり、愚痴ったり、喧嘩したりしています。今後も気の向くままに更新していきます。

 さて、今回久々に更新しようと思ったのは、以前にもこのブログで取り上げた浜野佐知監督の映画『百合祭』の上映会があったからです。浜野監督の映画はなかなか劇場で一般公開されないレアな作品が多い上に、以前見逃していた映画ということもあって、観に行かないわけにはいかないと思って観に行きました。ちなみにネタバレしております。


映画「百合祭」予告篇

 この映画は、高齢者女性ばかりが暮らす古いアパートに、ある日プレイボーイな高齢者男性が入居してきたことから、女性たちが自らの性的欲求に目覚め、そこから生じたひとりの男性をめぐる女性たちの様相を描いた映画です。原作ではその男性を中心に描かれた物語になっているのですが、本作は映画化にあたって、女性視点からの物語になっております。これまでも、たとえば私の敬愛する監督の一人であるライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『不安は魂を食い尽くす』などがありましたが、あの場合は欲求の対象は若い男性であり、本作のように同年代ではありませんでした。また、『不安は魂を食い尽くす』の原案であるダグラス・サーク監督の『天が許し給うすべて』も主人公は若くはありませんが、本作のように老齢といわれるような年齢層ではありません。また、映画の結末は原作の小説の結末とは大きく異なっていて、そのことで原作者から怒られたそうです。しかし、この映画化にあたって変更したという点が、この作品の大きな意義となっております。その意義とは一体何かという事を、上映後の監督のトークショーを紹介する形で触れていきたいと思います。

 この作品は2001年に制作された作品で、浜野監督自身も閉経を迎えるころに撮られた映画だそうです。監督曰く、世の中では高齢者女性のことを「賞味期限切れの弁当」「用済み」かのように扱うが、そんな世の中とは別に女性自身には性的欲求は在り続ける、ということをうったえたいという事が根底に強くあったそうです。監督自身、閉経を迎えても自分の性的欲求が衰えることがなかったということが大層うれしかったそうで、「(感染症に気をつけさえすれば)ヤりたい放題」だと思ったそうです。

 この映画に出てくる女性たちは、男性に先立たれたり、存命中も浮気をされて家で一人ぼっちで待たされたりという形で、長い間男性とのセックスが無かった女性ばかりでしたが、ミッキー・カーチスさん演じる入居した男性・三好の物腰柔らかな態度、積極的なスキンシップ、美しさを称える語弊の多さなどのプレイボーイっぷりにより、たちまち自身の欲求を花開かせます。主人公である、吉行和子さん演じる宮野も、三好に口説き落され、自身の部屋でセックスをします。宮野は三好との情事の間、恍惚の表情を浮かべながら、こう言います。

      「やわらかくて…あたたかくて…きもちいい…」

 三好も高齢者なので、すでに勃起能力がない。しかしながら、「きもちいい」セックスができるということを示しています。つまり、この映画は"高齢者女性の性的欲求"という世の中から無いものとされている存在を描くだけでなく、それを描くことで世の中に広まっている"勃起した男性器(専門的な用語でいうと「ファルス」)を女性器に挿入する"という異性愛中心主義的なセックス観を解体することも狙いに含まれているのです。監督は、勃起能力がない事に不安をおぼえたり、挿入行為に捉われ続けている男性たちへのエンパワメントにもなる、ということを語っていました。現に、この映画は制作されてからしばらく、海外の女性映画祭やレズビアン・ゲイ映画祭を中心に上映されていたそうですが、中にはフランス語圏の男性からとても感激したと熱烈なリアクションをされたということも述べていました。

 その方向は高齢者同士のセックスの達成のみで留まりません。この映画は男性と女性の役割の転換も意図的にもたらしています。それは、宮野が序盤から何度も思い浮かべる、三好が白雪姫となり(ミッキー・カーチスの女装コスプレ!)、その周りを小人の衣装をまとった女性たちが舞い踊るイメージだけではなく、三好が女性たちに"共有"されることで女性たちの結束を強めるという結末自体も、セジウィックという理論家が『男同士の絆』という本で指摘した、"ホモソーシャルな欲望"をひっくり返したものになっています(ただ単にひっくり返してるから良い、というわけではありませんが)。

 そして重要なのは、宮野がたどる結末です。三好が引っ越してくるより前、映画冒頭に目黒幸子さん演じる戸塚という女性が亡くなりますが、宮野はその戸塚との思い出を、主観的な顔のクローズ・アップで捉えています。古いハリウッド映画などで多く用いられた手法ですが、カメラを通して見つめ合う2人の顔の交換は、そこに映っている相手への恋愛感情の芽生えなどを暗に示しています。宮野には女性への性愛的な欲望があったことに、三好とのセックス、つまりファルスを介さないセックスをきっかけに気づくのです。

 この映画は脚本家の山崎邦紀さん曰く、東京レズビアン&ゲイ映画祭で観た、高齢者になって自らがレズビアンであったことに気づいたという女性を取り上げたドキュメンタリーが下敷きにあるそうです(山崎さん本人いわく「パクリ」らしいですが、検索しても作品名がわからず、僕自身未見なのでなんとも…)。このエピソードからもわかる通り、ファルスを必要としないセックスの快楽を覚えた宮野にとっては「男も女も関係ない」事に気づくのです。宮野はそこから戸塚との記憶をなぞるかのように白川和子さん演じる横田との関係を築き、奔放な乱痴気騒ぎなどではなく、それまで知らないうちに抑圧されていた自らの欲求に正直になるという形で、宮野は自身の「性の解放」を手に入れます。それを示すかのごとく、今まで小さな古いアパートの中での出来事が主だったにもかかわらず、突然大きく開けた横浜の海の上に舞台が移ります(そういえば、三好と出会ったのもアパートの前の開けた空地のような場所でした)。そうして解放を手に入れた宮野と横田の最初の姿を、暗い船の中から、明るい日差しが降り注ぐ甲板の上で捉えるという、物語で得られる解放と、場所の解放感とが重なりあうショットには思わず目がうるんでしまいました。

 また、上映後の浜野監督はさらに重要なことに、セックスを「愛」と結び付けることにも注意すべきだと言っていました。「男からすれば愛しているんだから股を開いて俺を受け入れろ、女からすれば愛しているのだから股を開いて彼を受け入れなければいけない。そういう強迫観念に基づいた、男は能動、女は受動という形で役割を強いてきたシステムがこれまで存在していた。でも、セックスっていうのはもっと自由なかたちであっていい」という言葉は、セックスをより楽しみたい人にも、セックスの必要性を感じない人にとっても、いくらか自由を感じる言葉ではないかと思います。

 このように、テーマが持つ意欲的な姿勢のみならず、技術的に観ても大変優れた本作ですが、実は日本国内で公開されたのは、制作から4年も経ってからだというのだから驚きです。浜野監督曰く、「ババアのセックス」なんて誰も視たいわけがない。客が入るわけがない。そういう理由で配給や公開を拒むというのが、この国の映画産業なのだ、と。「この映画が作られたのは15年も前の話で、この映画を作ってから10年や20年も経てば世の中はもっと変わっていて、ああこの時代にはこういうことが問題にされていたのね、と見られるような"古い映画"になると思っていたんだけど、まさか作ってから4年も公開されないし、15年経っても何も変わってないなんて!」と嘆いていました。映画というものに微かながらにかかわっている自分としては、同じように嘆きたい気持ちでいっぱいです。浜野佐知監督の映画がもっと観られるようになり、そして浜野監督の言葉がより多くの人々に届く世の中であればいいな、と強く思いました。

映画『マルガリータで乾杯を!』とフェミニズム映画理論

 福原です。
 今回は、最近観た中でとても感動した映画『マルガリータで乾杯を!』について、最近自分が勉強しているフェミニズム映画理論や、女性映画についての議論を自分の中でまとめることも兼ねつつ、照らし合わせながら書いていきたいと思います。


10月より、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開『マルガリータで乾杯を!』予告編 - YouTube


 まず、『マルガリータで乾杯を!』のあらすじから説明します。先に断っておきますが、思いっきりネタバレしますので、もしネタバレが嫌なら、これから先の文章を読むのは置いておいて、すぐに上映スケジュールを調べて、劇場で観られる段取りをつけることをオススメします!
 この映画はインドの女性監督によって撮られた映画で、舞台もインドの首都であるデリーから始まります。インドの名門大学、デリー大学に通う主人公の女性・ライラは、脳性麻痺を患っており、車いす生活を強いられています。19歳という、まだまだ好奇心旺盛な年ごろの彼女は、当然ながら性に対する興味を持っており映画の開始早々、ライラがポルノ動画サイトにアクセスしながら、マスターベーションするシーンが収められます。ライラには、大学に入る前からの付き合いの、自分と同じく車いす生活を強いられているボーイフレンドがいます。しかし、フェイスブックで自分の写真をアップロードする際、トリミングで車イスに座っている部分を削除するほど、自分が抱えるハンディキャップに対するコンプレックスを抱いているライラは、車イスに頼っていない、別のイケメンの男子生徒・ニマに想いを寄せます。ニマと同じバンドで活動を共にするライラは、脈ありと見るや否や、今まで付き合ってきたボーイフレンドとの付き合いを断ってしまいます。これに怒りを隠せないボーイフレンドは、「Bitch」という侮蔑語で罵りますが、ライラも負けじと「Fuck You」という侮蔑語で返します。
 ここまで読んでもらえればわかると思いますが、ライラは決して障がい者だからといって美化されているようなキャラクターではありません。むしろ、たとえ障害がなかったとしても、あまりにも軽薄で、あまりにも迂闊なキャラクターだと思います。じゃあ、この後自分の軽薄さや迂闊さを悔いて、改心して謙虚に生きるなんていう成長物語か?といったら、そうでもありません。だからこそ、僕はこの作品が愛おしくてたまらないのです。もし先が気になる方がいるのなら、ここで読むのをやめて、劇場に観に行って確かめることをおすすめします。まだ遅くありませんよ!
 というところで、いったんあらすじを追うのをやめて、ここで最初に書いた、フェミニズム映画理論について説明したいと思います。「フェミニズム」なんて言葉がつくと、「女性差別だ!」と声高に叫んでいる女性の姿が思い浮かぶ人は少なくないかもしれません。白状しますが、僕自身、フェミニズムについて積極的に興味を持つまでは、テレビタックルに出ていた時の田島陽子さんの様な方が「フェミニスト」なんだろうなと、なんとなく思っていました。しかし、「フェミニズム映画理論」となると、その様なステロタイプや単純なイメージではなく、もっと複雑なものになっていきます。
 フェミニズム映画理論、というものをキチンと語る上では、フェミニズムの起こりから説明すべきなんですが、長くなってしまいますので、「第2波フェミニズム」という言葉を覚えておいてください。フェミニズム映画理論は、その第2波フェミニズムが起こった60~70年代と同時代、あるいはすこし遅れて形作られたものです。まず70年代前半にクレア・ジョンストンという人が、『抵抗映画としての女性映画』という論文において、映画の中での女性という存在が"視られるべきもの"として定められている状況に、反感と危機感を表明します。 ここで観る/観られるという関係性を、前者を強者的、後者を弱者的立場であるという前提を立て、決して女性は映画を観ている観客と同じ立場には立てないという、不均衡な立場に置かれている という抑圧について論じています。それをさらに発展したのが、後に続くローラ・マルヴィの『視覚的快楽と物語映画』です。

 

「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)

「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)

 

  このローラ・マルヴィによる論文は、彼女と時を同じくして映画を論じていたクリスチャン・メッツの、「映画記号学」と呼ばれる考え方に影響を受ける形で書かれています。このクリスチャン・メッツという人が何を論じたかといえば、哲学から影響を受ける形で発展していった、ジャック・ラカンという精神分析医の考え方を用いて、映画を観ている際に観客が、一体どのようなプロセスを経て映画に没頭しているのかという、映画を観ることそのもののメカニズムを解き明かそうとしました。ローラ・マルヴィは、その映画に没頭するプロセスの中にはたらく 「視覚的快楽」が、女性を"視られる対象"として組み込み、また一方で男性を"視る主体"に組み込んでいる 、つまり特定のどの映画が、といった観点ではなく、 "ハリウッド映画を観ることそのもの"が、女性に対する差別的な見方を強化させている構造を持っている 、ということを論じているのです。当然ながら、この論文には当時から現在に至るまで、多くの批判が集まっています。しかし、クリスチャン・メッツが、映画を観ることそのものには、様々な快楽を引き起こしたり打ち消し合ったりしながら複雑に引き込んでいくというプロセスがあると論じ、そのプロセスが作り手の政治的な見方に組み込まれてしまうのではないかと論じたこの文章は、現在でもフェミニズム映画理論を語る上では、肯定的にせよ、批判的にせよ、決して欠かせない考え方として在り続けています。
 また、クリスチャン・メッツおよびローラ・マルヴィは、自分たちが行っている映画について構造的に色々分析することは、映画の楽しみそのものを破壊してしまう行為でもあると言っていました。確かに、フェミニズム映画理論は、ある種の映画の楽しみを奪ってしまうものだと思います。例えば、名作とされる1971年の映画『フレンチ・コネクション』において、主人公の刑事が車越しに自転車に乗っている女性のお尻を眺めているカットの次に、その女性が乗っている自転車が主人公の部屋の中に置かれ、ベッドには裸姿の女性がいる、というシーンがあります。これは男性である主人公が欲情し、そしてそれを晴らすためのセックスに至るまでの行為を、「視る」という行為のみで大胆に語ってみせるのです。こうした大胆な描き方は、日本国内の主な映画批評においては、話を軽快なテンポで進める為の手法であり、同時に映画のみが持ち得る様な大胆さとして称揚されている類のものです。しかしながら、このシーンにおける大胆さの下には、女性はあくまで"男性に視られるべきもの"であり、男性の様に"視るもの"として対等に、つまりは人として扱われていないことが、その構造の中で起きているのです。これに気づいてしまうと、この"大胆さ"は"暴力的"なものに映り、映画自体も気にせず楽しめる様なものでなくなってしまうかもしれません。
 さて、ここまで書いたらわかるかもしれませんが『マルガリータで乾杯を!』は前半のこの部分において、すでに女性を一方的に"視られるべき対象"として置かれることを拒んでいます。何故なら、主人公のライラと他の男性キャラとの関係は、車イスに乗っているか否か、イケメンか否かといった"視る対象"として定めているからです。こう書くとよくわかりますが、ライラは男性に対してとても差別的な見方をしていることになります。ですが、当然ながら、今まで女性がされてきたように、男性を視る対象に収めることがフェミニズム映画理論が目指しているものかといったら、全く違います。では、フェミニズム映画理論が目指しているのはどこなのか。再びあらすじを追いながら説明しましょう。
 ニマとの距離を近づけようと奮闘するライラは、その過程の中で、学生バンド向けのコンペディションで最優秀賞を受賞します。それに喜ぶのも束の間、その授賞理由は、作詞を担当したライラが、障害を背負っているからだと、審査員から説明されます。プライドを傷つけられたライラは、それを慰めてくれたニマに告白しますが、あっけなくフラれてしまいます。ボロボロに傷つくことになったライラは、もうこの学校にはいられない、いたくないと母親に訴えます。そんなライラのもとに、ニューヨークの大学に編入するチャンスが回ってきます。デリー大学にいたくないライラは、母親と共にニューヨークに渡ります。渡った先のニューヨークでもライラは懲りずに、パソコンでのタイピングができるにもかかわらず、教授の配慮によってあてられたタイピング係のジャレッドが、やはりイケメンだったという理由でその申し出を受け入れるなど、相変わらずの面食いぶりを発揮します。そんな中、警察への抗議デモ(アメリカ、特にニューヨークでは、警察の人種差別的な対応が昔からずっと問題にされています)で見かけた、同じ学校に通う女子学生・ハヌムと知り合います。ハヌムはライラよりもさらに複雑で、バングラデシュとパキスタンのハーフで、小さいころから両親に合わせていろんな国を転々としながら生きてきた視覚障害者でした。知性と美しさもあり、オシャレで遊びも知っているハヌムにライラは次第に惹かれ、ついには恋人同士の関係になり、ライラ達は間もなく、一緒に暮らすことになります。
 さて、ここでフェミニズム映画理論の話に戻ります。間違ってほしくないのは、男性のいない女性同士の性愛を描いた物語を作ることが、フェミニズム映画理論の目的ではありません。ここであらすじを追うのを止めたのは、この二人が一緒に住むことを決めた直後に訪れる、あらすじにも載らないような(だからこそ映画を観なければわからない!)、ごく短いカットにこそ、フェミニズム映画理論が重要視しているところのひとつが現れるからです。
 彼女はすでにライラの家に遊びに行くなど、ライラの母からの信頼を勝ち取っていて、まさか同性愛関係になっているなどと夢にも思わない母からは、互いにケアをしあえるという名目で、2人で暮らすことをあっさり承諾します。ライラにとっては、初めて親元から離れて暮らす生活が訪れます。そのライラに、母はお手製のスパイスをタッパに詰め、それぞれのタッパにラベルを貼り、そしてこれから独り立ちにするライラに手渡すシーンがあるのです。
 上記に挙げた70年代の議論から時を経て、1985年に書かれた、テレサ・デ・ラウレティスという人の『女性映画再考』という論文では、そもそも「女性映画はこのように見え、聞こえる。これが女性映画の言葉だ。」という問いかけをすること自体、「女性が社会に「社会」に参画したり、「貢献」することができるのかということを義務的に示すことにもなってしまう」と拒みます。ラウレティスはさらに、「映画に関わるフェミニストの当座の試み」として、 女性というものをある場所に押しとどめようとする境界に対して挑むこと、そしてそうして挑むことによって、その境界を「もっと柔軟、かつ複雑、かつ矛盾するものとして捉えられる」ようにすべき だと説きます。このラウレティスという人は、映画理論に留まらず、フェミニズムについて様々な論文を書いている人で、こうした「境界の攪乱」を積極的に行っていくべきだと説いた「クィア理論」の提唱者としても知られています。クィア理論はフェミニズムの考え方をさらに押し広げて、セクシュアル・マイノリティ、身体障碍者なども含めた、社会から抑圧を受けるすべての人たちを主体におき、マジョリティによる一般化に対する抵抗を試みる為の方法論として知られていたりします。この辺り、かなり複雑な上、それを説いたという『クィア・セオリー』をまだ読んでいないので断定的には論じられませんが、すくなくともこうした「境界の攪乱」という点で、ラウレティスが説いたこの2つの論考は共通しています。少し難しくなりましたが、この「境界の攪乱」はとても重要な点のようです。
 そしてラウレティスは『女性映画再考』で、女性映画の在り方のひとつを示している例として、2人の女性監督のインタビューを取り上げます。1人目のシャンタル・アケルマン監督は自らの作品を、 観客を同じ女性として話しかける様な映画を作っている と述べます。その為に キスシーンや車の爆発シーンと比較すると「映像のヒエラルキーにおいて下位」に位置している、"女性の日常的な仕草" に注目します。色々な観客の姿を想像し、そうした観客一人一人に話しかけるように作っているという姿勢を、ラウレティスは高く評価しています。確かに、マルヴィが『視覚的快楽と物語映画』で論じていたのは、あくまで観客を男性として見立てていたのであり、女性の観客という存在が結果的に無視されている形になっていました。(そうした批判が及んだあと、女性観客にはどのように働いているのかと論じた文章をマルヴィ自身発表しているようです。)それに対し、シャンタル・アケルマンの言っていることは、 観客として存在する女性をまず肯定する ところから始まっているのです。
 恐らくその若さ、しかもインドという人口過密国において、デリー大学に入学出来たり、海外の大学に編入できるほどの高い学力であるライラは、映画内でそういった描写こそないものの、恐らく幼少の頃から学校教育や受験対策を徹底的にしてきたものだろうと思います。現に、ハヌムとの生活を始めたばかりの時、脳性麻痺という身体的に不自由な条件もあり、目玉焼き一つ作るのに大変な苦労をしてる描写もあります。他のあらゆるインド映画でも、"古風な女性像"として描かれる、日常的にサリーを着て、料理上手な母親像をなぞっていもいる母親は、料理について苦労するライラの身を想って、(日本でも死語になりつつありますが)"おふくろの味"を持たせたのでしょう。こうした描写で"母親"を描くことは、決して生半可な想像力によって達成できることではありません。この『マルガリータで乾杯を!』という映画を監督がささげている相手として、不慮の事故で亡くした自らの息子の名前を挙げたこととは無関係でないように思います。ライラという若い女性の奔放さを描く一方で、娘を想う母親の姿を描いているのは、前段で書いたシャンタル・アケルマンの、「観客を同じ女性として話しかける」といった姿勢と相通ずるものではないかと思います。
 映画はここで終わりません。ライラの身には、さらなる急展開が待受けます。ライラはハヌムと共に、インドへ帰る計画を立てます。その最中、その場の成り行きでライラはジャレッドとセックスをしてしまいます。(このジャレッドとのセックスと、ハヌムとのセックスの描写の違いも注目ポイントなのですが、ここでは詳細に論じることはやめておきましょう。)ハヌムに対して後ろめたさを覚えながらも、ライラは一緒にインドへ帰ります。ライラには、この里帰りで一つの目標がありました。それは、母親に自分ノセクシュアリティを打ち明けること(カムアウト)です。ライラはニューヨークで、ハヌムがすでに両親にカムアウトしていたことを知ります。両親からの反発はすごいものだったと語るハヌムですが、一方で「嘘をついて生き続けるのは嫌だった」と言います。それを聞いてハヌムが応援する中、いよいよライラは母に対してカムアウトしました。母の答えは「気持ち悪い・・・」という強烈な拒絶の一言でした。そして、ライラはさらに、ハヌムにもジャレッドとセックスしてしまったことを打ち明けます。ハヌムは怒り、結果的にライラとは別れてしまいます。
 ここでもう一つ、比較的最近の「女性映画」に関する文章として、2006年にパトリシア・ホワイトという研究者が日本で講演した時の『アートシネマとしての女性映画 トランスナショナル・フェミニズムとニッチ映画』という講演録を紹介したいと思います。このパトリシア・ホワイトは、映画の作品の中での出来事にとどまらず、女性映画がハリウッドや世界中の映画興行において、どのような位置に存在しているか、ということに注目して研究している方で、この講演では、それこそ『マルガリータで乾杯を!』のように、女性映画が国際映画祭で取り上げられることについて論じています。題名にある「トランスナショナル」という言葉は、国境を攪乱するといったような概念であり、やはりここでも「境界の攪乱」が重要なポイントになってくるということです。この講演では、クレア・ジョンストンの時代から時代を経て、デジタルでの映画製作も可能になった現在の状況を踏まえて、国際映画祭などのアートシネマが必要とされる"マーケット"において、どのような女性映画が必要とされているのか、また、 一言で「女性」といっても、それぞれの国や地域、文化的な背景によって置かれている立場が根本的に違うこと、そして女性映画もその映画が上映される状況によって意味合いや立場が変わってくること を論じています。この映画の中のライラとハヌムも、ニューヨークでは部屋の中に引っ越しの業者がいる中でキスしたりとイチャイチャしているのですが、インドに来たら(片方の実家ということもあると思いますが)、食卓の下で互いの足を突っつき合うなど、極めて控えめなものになっているように、国境をまたぐことで振る舞いが変わっています。では、ニューヨークに住んでいたほうが良かったのではないか、なぜそこで終わらなかったのだ、というのは、セクシュアル・マイノリティ、あるいは先ほど取り上げたクィアに属する人々に対し、「封建的な田舎ではなく、開放的な都会に住もう!」といったようなキャンペーンを展開されることをメトロ・ノーマティヴィティ(大都市規範性、要はあるべき地域コミュニティの形は大都市、しかもアメリカやヨーロッパの大都市にこそあり、そこ以外は遅れたものなので離れるべき、とする考え方。)として、批判されています。だから、この映画が目指すのはまた、「インドでたまたま障碍者バイセクシュアルとして"生まれてしまった"主人公が、"自分を認めてくれる"大都市に居場所を見つけた」という話にもなっていない、ということです。
 先ほど挙げた『女性映画再考』という論文で取り上げられている、もう1人の監督であるリジー・ボーデン監督の、あるインタビューが引用されています。様々な人種の女性がラジオ局を乗っ取る『ボーン・イン・フレイムズ』という映画に対してインタビュアーが、この映画を観た観客たちは居心地の悪い思いをするのではないかと述べたことに対し、 「白人の観客に向かって「あななたちはここに属していない」と言うのではなく、いろいろな考え方、あるいはさまざまなものの言い方や表し方に対する受け皿としての観客を考えていました。」 と述べています。そうした「いろいろな考え方」を持つ観客の中には、もはや国境を越えた人々がいることを想像する必要がある、ということです。ここからパトリシア・ホワイトは、また別の講演録『トランスナショナルな女性映画』において、「アメリカが中心で、その周縁といった観念を払拭」する概念として、「ワールド・シネマ」という言葉を取り上げます。 現在までフェミニズム映画理論が行ってきた作業の集積は、性別という枠を超えて、国境という「境界」すら攪乱しよう という地点にまで達しているようです。
 さあ、映画の結末まで辿ってみましょう。ライラはハヌムとは別れ、母は結局病死してしまいます。ライラは強い喪失感に苛まれます。しかし、ライラは何もかも失ったわけではありません。母との思い出は歌として残り、ハヌムとの思い出はマルガリータの味と共に残ります。大人になったライラは自分自身を祝福します。浮気症で向こう見ずでたくさん傷ついたり失敗したりしても、自分自身を肯定し、鏡に向けて満面の笑顔を浮かべるライラの姿には、直情的になってなにかと失敗してしまう僕自身も肯定されているような優しさを感じました。
 今まであらすじと一緒にいろんなフェミニズム映画理論と女性映画の議論を追ってきましたが、まだまだ僕自身理解しきれないことがあるほど、かなり複雑な議論になっています。もしかしたら、というより恐らく、これまで取り上げてきた理論の解釈にも誤りがあるかもしれません。(もしそういった場合があるなら、教えていただけるとありがたいです・・・)

 しかし、そうした複雑さは、メッツやマルヴィが言ったように「映画の楽しみを奪う」ものである一方、別の映画の楽しみに気づくことができるものでもあります。この映画のラストシーンがもたらす優しさは、ラウレティスが言うように、矛盾すら内包する複雑さがもたらしたものだと思います。なぜなら、映画を作るのも、映画を観るのも、また同じ人であるからです。そして、人というものは、常に矛盾を抱えている複雑さを持っている生き物だからです。そして、この『マルガリータで乾杯を!』は、まぎれも無くそうした矛盾すら、肯定してくれている映画だからです。

www.margarita.ayapro.ne.jp

男性学的視点から観た『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

 福原です。

 突然ですが、皆さんは「男性学」という言葉をご存知でしょうか・・・と、僕自身最近まで知らなかったくせに、知った風な書き方をしてしまいましたが(苦笑)。以前に大人部会をやった時、僕がジェンダーセクシュアリティに対して興味や関心を持つプリミティブなものはなんなのか、という話になった時、その場でネットで色々調べたらこの「男性学」という言葉に出会いました。

 さらに調べたところ、田中俊之さんという武蔵大学助教授を務める方の書籍『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』を見つけたので、読んでみました。

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

♦『男性学』とは?

 

  では、その男性学がどういうものかというと、先月主催した大人部パーティー でも作品を上映させてもらい、以前にもブログで取り上げたライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の発言の意味を探ることから見えてきます。その発言というのは「一番抑圧を受けているのは男性だ。男性が解放されなければ女性の解放だってあり得ない。」というものです。


 このファスビンダー監督の発言がいつのものかわかりませんが、当然ながら存命中のものなので、30年以上前のもの、ということになります。
 ドイツでは現在も内閣に「高齢者・女性・青少年大臣」というポストがある通り、女性に対して社会的な支援が行われています。社会的な支援が行われているということは、それを必要としない人と比べれば、抑圧を受けているはずです。ところが、この内閣のポストの名前で並べられている属性から除外されているのは、若年~壮年の男性ということになり、「抑圧を受けている」とされている対象ではないはずです。では、何故ファスビンダーはこのような言葉を残したのか。それは、このように女性が社会的な支援を必要とされるもの、つまりはフェミニズム的な思想が広がっていることが関係あります。
 女性が抑圧を受けてきた歴史を世界的に紐解いていくと長大になってしまうので詳しくは割愛しますが、先日イギリスでの騒然としたプレミア上映が話題となった『Suffragette』(日本語に直訳すると「女性参政権運動」の意)が20世紀初頭のイギリスを舞台にしている通り、歴史的に女性は抑圧を受け、そしてそれを克服するための運動が世界各地で行われてきて、近年でも女性差別が激しいインドの農村部での女性解放運動などが話題を呼んでいます。そうした解放運動を通して、女性の生き方というのは多様性を認められてきました。ただ、一方で男性の生き方というのは、女性のそれと比べて認められていない、というのが男性学の基本的な姿勢です。これが、男性学フェミニズム以降の学問と言われる由縁です。
 確かに、女性を抑圧してきたのは男性、あるいは男性を上位に置く男尊女卑社会の価値観にほかならず、男性よりもずっと自由が制限されてきました。しかし、「女性は男性と対等の立場であるべき」という思想が広がりを見せる一方で、「男性は決して女性の下の立場になってはいけない」という思想を拭い去ることはできていないというのが実状です。性別によって「下の立場であるべき」という思想を排除するのであれば、同時に「上の立場であるべき」という思想も排除しなくてはなりません。こうした男性にかぎらず、性別に対して社会が課してくる「○○であるべき」という考え方こそ、ジェンダーと呼ぶのですから。
 ただ、この男性学を語る上で気をつけなければいけないのは、例えば電車の女性専用車両を「男性差別」「逆差別」と呼んで糾弾する運動とは異なります。余談にはなりますが、性犯罪者の内8割を男性が占めているという現状では、男性と隔離されてる環境の方が、女性は安心できるし、我々男性も、『それでもボクはやってない』で取り上げられた、痴漢冤罪というものに怯えなくて済むことになります。もちろん、性犯罪者の8割は男性であっても、すべての男性が性犯罪者ではないので、いつかはこうした構図から抜け出さなくてはいけないのですが、女性専用車両を施行するより、はるかに時間がかかることになると思います。性犯罪者という存在もまた、そうしたジェンダーにより、実態の研究や適切な対処が行われにくくなっている存在でもあるからです。(ライターの田房永子さんによる、一連のルポに詳しいです。 )被害者の不安や恐怖を取り除いた後、こうしたジェンダーをゆっくり時間をかけて社会が克服していく、というプロセスの順序立ては、個人的に誤りでないと思います。
 『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』は、そうした女性との相対的な立場の差に苦しむ人たちへ、「そんな時代遅れの"普通"を追いかけるのはやめろ」と呼びかける本となっております。特に著者の田中俊之さんが本書で呼びかけているのは、「(デートやプロポーズ、告白などの恋人関係の形成において)男性が女性をリードすべき、という考えはやめたほうがいい」ということです。リードすべき、というのはつまり、恋人同士という本来対等であるべき関係において、上下関係、ヒエラルキーを求めることです。恋愛というごくプライベートな事象から、こうした性別によるヒエラルキーの形成を行うことをやめてみよう、それこそが、男女の格差に苦しむ人を減らす第一歩になる、というようなメッセージが、本書には込められています。


♦『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のウォー・ボーイズについて 

www.youtube.com


 さて、それではタイトルにも書きました『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を、この男性学的な考え方から観てみることにします。まず、そもそもの話として「男が上位であるべき」という考え方で、一体どの男性が損をするのか、という問いに答えなければなりません。それは明確に、戦争へ行く男性である、と断言できます。その観点から言うと、"男性ジェンダー"によって一番抑圧を受けているのは、言うまでもなく敵役のイモータン・ジョーの手下で戦闘要員であるウォー・ボーイズ達でしょう。
 
 たしかに多くの男性の肉体は、女性より筋力が付きやすく、機関銃などの重いものを運ぶにしても便利です。しかし危険なのは、この「便利」という考え方です。イモータン・ジョーの砦にいる女性たちは、魅力的な肉体を持った子産み女と、肥えさせられた母乳女として、明確に最適化されて役割を与えられ、管理されています。しかし、子産み女たちが抜け出した部屋に書かれていた「WE ARE NOT THINGS」という言葉の通り、男女に限らず人はモノではありません。利便性を基準に管理されるべき、という思想こそ、こうした人をモノとしてあつかい、尊厳を傷つける第一歩です。
 もちろん、露骨に「お前は使い捨てのモノだ」と言われて、使われたいと思う人はいません。使う側は狡猾に、「使われる喜び」を覚えるように仕組みます。そのウォー・ボーイズの中で奇しくもマックス達と行動を共にすることになる、ニュークスが高揚しながら言っていた、「英雄の館」という存在はそのうちの一つでしょう。彼らウォー・ボーイズが死を恐れず、むしろイモータン・ジョーの為に命を捧げることを誇りに思い、「俺を見ろ!」と誇示しているあたり、死後の世界のようなものとして、彼らに語られているものなのだと思います。イスラム原理主義組織が聖戦に殉じた(≒自爆テロに及んだ)後、待受けているという祝福の世界、あるいはかつての我が国である大日本帝国が、国家神道を推し進めていた時に国民に説いていた、戦死したものが英霊軍神として祭られ、他に戦死した仲間たちを会える場所として設けた、靖国神社にも似た構造のものだと思います。また、上記の子産み女やウォー・ボーイズの肉体に満たないものを砦の下へ置き、ウォー・ボーイズ達を鼓舞したり、ジョー自身を神格化するために歓声を上げる大衆として配置させているのも、その一例でしょう。極めて良くできた管理システムです。
 また、現実に男尊女卑の価値観が根強いとされる国、とくにアフリカやアジア諸国においては、企業の管理職に女性が就くことが珍しくなかったりします。僕が観たナイジェリアのラブコメディ映画『恋するケータイinラゴス』でも、企業の社長や会長役に、女性が配役されていて、とても驚きました。


PHONE SWAP OFFICIAL TRAILER 1 - YouTube

それはなぜかといえば、男性を武力や軍事力として用いて、次々と紛争で死んでいる為、戦場へ行かない女性が企業の担い手になるしかない、という事情があるようです。そうした紛争に巻き込まれて亡くなっている多くの男性たちも、自分のことをまさか「使い捨て」だとは思っていないでしょうし、使っている側もそんな意識で使っていることもないでしょう。イモータン・ジョーのように、もはや誰か個人の意思によって操作されているのでもなく、使う側も使われる側も構造の中に巻き込まれているからこそ、「抑圧されている」というわけなのです。これで男性学が批判的にとらえている点というのが見えてきたと思います。つまり、「男尊女卑という形で社会体制が男性を上位に置いたところで、結果的には女性同様、国家などの支配体制によって都合よくつかわれること」です。しかも、女性のそれと違ってさらに残酷なのは、自らの死に向かって突き進むような生き方を、至上のものして提示しているものが多いのです。日本でも先に取り上げた靖国神社や、遡っても江戸時代に武士の心得として書かれた『葉隠』という書物に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とある通り、男尊女卑の行きつく先は"誉れ高き死"という男性ジェンダーなのです。どちらが上位で、どちらが下位であっても、結局はものとして使われることになるのです
 ニュークスは、再三にわたって子産み女たちから「お前は使い捨てなんだ!」と言われても聞く耳を持とうとしませんでした。しかしその後、ジョーの前でヘマしたことを悔いて、本来敵であるはずの車の中でうずくまってしまいます。社会からの承認を託していたニュークスは同時に、社会からハシゴを外された瞬間、生きる目的も死ぬ目的も失ってしまったのです。多様な生き方を選べないことは同時に、その唯一の生き方を見失った時、悲惨な結末を辿ることになってしまいます。日本において男性の自殺率が女性の2倍以上にも及んでいるのも、ひとえにこうした生き方の多様さが、男性に認められず、"誉れ高き死"を強いてきた結果なのだと思います。ニュークスはその後、ジョーの為に命を投げ出す選択をやめます。その後ニュークスは生気を取り戻したかのように活発に動き回ります。ニュークスには別の生きる道が思いもがけず訪れましたが、もし自分がニュークスと同じ目に遭ったとしたら、どうなっていたでしょう。そうならないためにも、色々な生き方を認めるという上ではまず、自分自身を許すことが大切だと説く田中俊之さんのこの本のような考え方に出会うことは、とても大切だと思います。

 

【追記】

d.hatena.ne.jp

 こちらに『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ついて書き足りなかったことを書きました。

【告知】フェチ研 特別編 ゲスト:藤田博史(精神分析医)《映画『13回の新月のある夜に』(ファスビンダー監督)における“倒錯”の精神分析」》

悠です。

 

次回のフェチ研のお知らせです。

今回は「渋家ホームパーティー」というイベント内のいちコンテンツとして開催致します。

(イベント概要はこちらをご覧下さい)

 

今回は精神分析医である藤田博史さんをゲストにお迎えし、映画『13回の新月のある夜に』における“倒錯”をめぐってパネルトークをしたいと思います。

前回に引き続き、映画体験の中から「倒錯」について探りたいと思います。

どなたでもお気軽にご参加下さい。

ご予約はshibu.otona@gmail.com【お名前・性別・人数】をお書き添えのうえ、ご返信ください。

 

 

以下詳細

 

 

フェチ研 特別編

ゲスト:藤田博史精神分析医、『性倒錯の構造』著者)

テーマ

《映画『13回の新月のある夜に』(ファスビンダー監督)における“倒錯”の精神分析」》

 

f:id:shibuotona:20150902191355j:plain

 

日時:2015年9月22日(火・祝) 

時間:19:00-24:00

場所:渋家地下クヌギ

参加費:1,000円(予約制、飲み物・フード込み)

※途中入退場可、再入場可。いつ来て、いつお帰りになっても大丈夫です。

 

 

タイムテーブル

19:00 開場

19:30 オープニングトーク 《映画概要、精神分析の基礎知識》

20:00-22:00 映画上映

22:10- アフタートーク 《主人公エルヴィラの“倒錯”から現代の“性”を考える》

 

パネリスト

藤田博史精神分析医)

※公式ウェブサイト http://foujita.vis.ne.jp/

悠レイカ(渋家、大人部部長)

不明(大人部仮部員)

福原拓海(大人部部員)

 

資料

性倒錯の構造

性倒錯の構造

 

  

13回の新月のある年に [DVD]

13回の新月のある年に [DVD]

 

 

今回のフェチ研によせて部員の福原くんが上映作品についてまとめてくれました。

ご参加を検討されている方は事前に読んでおくと理解が進むかと!

監督ファスビンダーについては福原くんのこちらの記事をご覧下さい。

 

クヌギで開催されるパネルトークの題材となる作品、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『13回の新月のある年に』(1978年)の作品紹介です。  

 

【あらすじ】

 娼婦として生計を立てる女、エルヴィラ。物語は彼女が男装して、ハッテン場で男娼を買おうとするところから始まる。 「女として男を買うよりみじめではない」

 女性にしては大柄な体格で、恋人からも醜く太ったと罵倒される彼女は、かつて妻子を持つ一人の男でありながら、不動産王・アントンを愛してしまったが為に、性転換手術を行ったという過去を持っていた。  自分を愛してくれる者も、愛する者も失った彼女の、最期の5日間の彷徨を描く。  

 

【作品解説】

 本作の監督、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは、70~80年代前半のドイツを代表する映画監督。1982年にドラッグの過剰摂取により生涯を閉じるまで、活動年数の倍以上の長編作品を手がけたという異常な製作ペースもさることながら、一見奇妙に見える演出や、その作品の題材、ストーリーの過激さも特徴的で、同性愛者を公言しながら出演女優と結婚するなど、監督本人のスキャンダラスな言動も相まって、現在でも国内外を問わず多くの支持を集めている。

 本作は彼のかつての恋人であり、自身の監督作にも出演していた俳優、アルミン・マイヤーの自殺を受けて、ファスビンダー自身の手により製作された。製作の他にも、監督・脚本・撮影・編集などもファスビンダー自身が手がけている外、作中でも彼の過去の監督作品の場面や、彼自身のインタビュー映像が引用されているシーンがあるなど、彼のフィルモグラフィーの中でも特にパーソナルな作品である。  

 

【大人部部員・福原のコメント】

 僕が敬愛する映画監督の一人、ファスビンダー監督の代表作の1本です。彼の作品群の中ではキャッチ―な部類には入らないかもしれませんが、彼の映画を語る上では決して避けては通れない作品です。近年に都内で行われた彼のレトロスペクティヴでも、上映作品の内に入っていない、上映機会としてもレアな作品です!

 ファスビンダー監督の作品は、映画ファンの間のみならず、ジェンダーセクシュアリティ研究の題材としても挙げられることも多く、今回のホームパーティーで上映できるのが大変楽しみです!  そもそも僕が大人部に入るきっかけとして、部長の悠さんに「性というものに対して切実さを持って学んだり語り合ったりで出来る機会や場を渋家内に設けたい」という話をしたのですが、その"性に対する切実さ"というものの答えのひとつとして、本作を推薦しました。

 パネルトークでは、本作の他にも、『ニンフォマニアック』、『セックス・アンド・ザ・シティ』、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』、『愛のコリーダ』、『サンダンカン八番娼館 望郷』など今回の上映作品候補として挙げられていながら選ばれなかった作品などについても語れたらと思っています!

 (なお、上映会場の上ではパーティーが行われているので、映画の上映環境としては騒音が気になるかもしれませんが、そこはご愛嬌ということで、どうかひとつ大目に見てください^^;)

 

 また、これまでのフェチ研の様子はこちらをご覧下さい。

 

みなさまのご参加をお待ちしています。 

 

【告知】渋家ホームパーティー presented by 大人部♡

イベントの告知です。

 

大人部の活動拠点、渋家(シブハウス)

そこで毎月開催しているホームパーティーに、大人部がコラボすることになりました!

 

 

渋家ホームパーティー presented by 大人部♡

2015年9月22日(火・祝)

19:00-翌5:00

参加費¥1,000 free food/drink 持込み可 宿泊可

 

●渋家ホームパーティーとは

f:id:shibuotona:20150908052717j:plain

「渋家」は、 コミュニケーションを主体とした「場所」であり「集団」です。

メンバーは年齢や職業を問わず、生活や活動も固定しません。

住所非公開の“隠れ家”を拠点に、さまざまなコンテンツ生み出しています。

 

そんな渋家が毎月22日にお届けするホームパーティー!

今月のホームパーティーは「大人部♡」プレゼンツ!

「大人のための“性”教育」を推進する大人部!

大人になった今だから、ちょっと“性”について考えてみませんか?

真面目なだけじゃない、エロオモシロいコンテンツをご用意!

 

渋家といえば「○○がルール」!

受付で○○の部分が言えた方に特製コンドームをプレゼント

 

渋家に来たことがない人はshibuhouseinfo@gmail.comまでお問合わせください。

 

 

 ●大人部とは

f:id:shibuotona:20150607183255p:plain

「なんか、みんな性に対して、切実じゃなくない?」

そんな会話をきっかけに始まった、大人のための大人の部活動。

大人だからしっかり向き合いたい、エロティシズム/セクシャリティー/ジェンダー/クィア/ラブ・・

そういったテーマを掘り下げ、「大人のための“性”教育」を標榜しています 

 (ブログ「渋家大人部とは」より)

 

 

♡contents

 

○2階 リビング 

元気のでるfood♡

・ちんぱいプレート

f:id:shibuotona:20150913212321j:plain

f:id:shibuotona:20150913212348j:plain

・チ○コバナナ

 f:id:shibuotona:20150902191906j:plain (参考画像)

 and more!

 

 

 

○地下 スペース“クヌギ

フェチ研 特別編

ゲスト:藤田博史精神分析医)

テーマ:映画『13回の新月のある夜に』における“倒錯”の精神分析

 詳細は⬇️をご覧下さい!

●パネリスト

藤田博史精神分析医)

悠レイカ(渋家、大人部部長)

不明(大人部仮部員)

福原拓海(大人部部員)

 

●タイムテーブル

19:00 開場

19:30 オープニングトーク 《映画概要、精神分析の基礎知識》

20:00-22:00 映画上映

22:10- アフタートーク 《主人公エルヴィラの“倒錯”から現代の“性”を考える》

途中入退場可、再入場可。いつ来て、いつお帰りになっても大丈夫です。 

 

 

○3階  

グッズコーナー

 

NYOTAIMORI TOKYO  twitter:@nyotaimori_info

f:id:shibuotona:20150908073136j:plain

iPhoneケース

f:id:shibuotona:20150908073057j:plainf:id:shibuotona:20150908073113j:plain

・特製ステッカー

 

 

●LoveToyShop BIRTHDAY

f:id:shibuotona:20150908075202j:plain

・Tantric マッサージャー

f:id:shibuotona:20150908073232j:plainf:id:shibuotona:20150908073245j:plain

・DRESS CAMP コンドーム

f:id:shibuotona:20150908073318j:plainf:id:shibuotona:20150908073325j:plain

and more!!!

 

 

●作家 REINAさん   web:REINA  twitter:@gore017meido  

・TATOOシール

血の涙、ヤスデ、血の手錠、血の首輪、目玉チョーカー

f:id:shibuotona:20150908073720j:plain f:id:shibuotona:20150908073809j:plain

f:id:shibuotona:20150908073902j:plain f:id:shibuotona:20150908073908j:plain

f:id:shibuotona:20150908073958j:plain

・血のガーターベルトタイツ

f:id:shibuotona:20150908074018j:plain

・目玉指輪、目玉チョーカー、目玉イヤーカフ...and more!!

  

 

●緊縛師 芙羽忍さん  web:Shinobu Fuwa Official Website  twitter:@fuwa_shinobu 

特製チャリティーステッカー

f:id:shibuotona:20150908075118j:plain

f:id:shibuotona:20150908075127j:plain

 

※経費を差し引いた額を犬猫保護団体へ寄付しておられます。



【レポ】フェチ研vol.1《暗号としてのフェティシズム、映画『毛皮のヴィーナス鑑賞』》

悠です。

先日、フェチ研vol.1を開催しました。

 

この日のテーマは

《暗号としてのフェティシズム、映画『毛皮のヴィーナス鑑賞』》

f:id:shibuotona:20150817032844j:plain

 

フェチ研の前身である家縄会では、暫くの間ポール=ロラン・アスン著『フェティシズム』を糸口に「フェティシズム」の思想史について学んできました。

民俗学の領域で生まれた「フェティシズム」の概念が、性科学や経済学を経由して、精神分析学の領域でどう花開いたかを紐解く著作です。

 

フェチ研vol.1では、「フェティシズム」の概念を、ウィニコットラカンなど、ポスト・フロイトにあたる精神分析家たちがどのように解釈したかを学びました。

f:id:shibuotona:20150829022746j:plain

 

また、その後に映画『毛皮のヴィーナス』(ロマン・ポランスキー監督)を鑑賞し、これまで学んだ「フェティシズム」を映画体験の中から探りました。

f:id:shibuotona:20150829022809j:plain

 

 

●映画『毛皮のヴィーナス』について

 

ここで映画の概要を一部引用します。

 

解説 

マゾヒズムという言葉を生んだ、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』にインスパイアされたサスペンス。

メガホンを取るのは、『戦場のピアニスト』などのロマン・ポランスキー

主演は監督の妻でもあるエマニュエル・セニエとマチュー・アマルリック

 

あらすじ

高慢で自信に満ちあふれている演出家トマ(マチュー・アマルリック)は、あるオーディションで無名の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)と出会う。

品位を全く感じさせない彼女の言動や容姿に辟易(へきえき)するトマだったが、その印象とは裏腹に役を深く理解した上にセリフも全て頭にたたき込んでいることに感嘆する。

ワンダを低く見ていたものの、オーディションを続けるうちに彼女の魅力に溺れていくトマ。

やがて、その関係は逆転。

トマはワンダに支配されていくことに、これまで感じたことのない異様な陶酔を覚えてしまう。

 引用元 Yahoo!映画

 

 


『毛皮のヴィーナス』予告編 - YouTube

 

この作品の中で、女優のワンダと演出家のトマは、誰もいない二人きりの劇場で、オーディションと称してマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』の戯曲を演じます。

劇中劇というやつですね。

さて、映画作品について述べる前に、マゾッホの小説について知っておきましょう。

 

 

マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』について

 

解説

「小ロシアのツルゲーネフ」と謳われたウクライナ出身の小説家マゾッホが1871年に書いた中編小説。

彼の代表作であり、そこには「マゾヒズム」の開花が見てとれる。

 

あらすじ

退屈なカルパチアの保養地で過ごすゼヴェリーン(映画ではトマがこの役を演じる)は、そこで彫刻のように美しい女性、ワンダ(同様にワンダがこの役を演じる)と出会った。

まだごく若い彼女は未亡人であった。

ゼヴェリーンはその美貌と奔放さに惹かれ、またワンダも知性と教養を備えた彼を愛するようになる。

自分が苦痛に快楽を見出す「超官能主義者」であることを告白した彼は、ワンダにその苦痛を与えて欲しいと頼む。

そして自分を足で踏みつけ、鞭で打つときには必ず毛皮を羽織ってくれ、とも。

はじめはそれを拒絶していたワンダだが、彼への愛ゆえにそれを受け入れる。

そして2人は契約書を交わし、奴隷と主人という関係になる。 

引用元 wiki

 

19世紀の精神科医・クラフト=エビングが造語した“マゾヒズム”の語源になったのは、他でもない、このマゾッホでした。

 

 

●マダムからミストレス、そして“ヴィーナス”へ

 

映画に話を戻しましょう。

 

映画でトマ演じるゼヴェリーンは、ある幼い頃の体験について、告白を始めます。

 

「毛皮を溺愛する叔母がいたんです。」

 

高貴で堂々とした肉感的な女、そのように見えていた叔母。

その叔母がある日、悪さをした自分を毛皮の上に押さえつけ、樺の枝で折檻をした。

最後に叔母は“ひざまついて懲罰に感謝し足に口づけなさい”と命令し、部屋を出て行った。

 

「あの出来事から、毛皮は私にとって単に毛皮ではない」

 

その体験からゼヴェリーンが導き出したのは

 

「痛みは最も官能的な感覚で、恥辱こそ最高の快楽だ」

 

ということ。

 

この「告白のシーン」を演じるトマは、それがまるで自分自身の経験であったかのような、バツの悪い、複雑な表情をしています。

演出家といえど、男優でもない素人の演技にしては、やけにこの告白が「本物っぽい」のです。

それはなぜなのか。

それは、ゼヴェリーンこそトマが自己を投影する象徴的人物であり、その役を演じることで、自らの嗜好性がどうしようもなく暴露されてしまうからなのです。

 

この映画は、小説の「ゼヴェリーンとワンダ」、映画の「トマとワンダ」、二対の男女を描きながら融解させることによって、新たな「女性崇拝」の記念碑を鋳造する映画なんだ、というのが私の解釈です。

 

劇中劇の中で、ゼヴェリーン(あるいはトマ)からワンダへの呼称が「マダム→ミストレス→ヴィーナス」と、より高位なものへ変化していくところなんて、ホントそれを象徴していると思います。

 

 

フロイトにおける「フェティシズム

 

では、この「女性崇拝」の物語に潜むフェティシズムについても考えてみましょう。

 

フロイトフェティシズムをこう説明します。

 

フェティシズムはエディプスコンプレックスを解決する際のナルシシズム的防衛である」

 

つまり、エディプス期の去勢不安の元となる「母のペニス」の幻想が、「母のペニス」の代用としてのフェティッシュを選び出すのだ、ということ。

もちろん「母」というのは実在の母ではなく、いうなれば「母的な存在」のこと。人間が幼い頃に初めて「愛」を向ける対象のことです。

この映画内では「叔母」がその位置にあたるでしょう。

この映画では、届かぬ叔母への愛が毛皮や樺の木に移行していく「フェティシズム」の成り立ちが、ゼヴェリーンの物語を通して描かれています。

また、このフェティシズムが強調されればされるほど、叔母への届かぬ愛も際立ち、その不運が「女性崇拝」の物語を強化します。

この焦れったい関係性の連続が、女性を人間以上のものとみなす「女神崇拝」にまで高まるのです。

ある愛の欲望が神秘的な体験にまで昇華する、この弁証法的なストーリー展開が、私にはオーガズムの疑似体験のようで、とてもエロかったですね。

 

ここで、ラカンにおけるフェティシズムの解釈について取り上げたいと思います。

 

 

ラカンにおける「フェティシズム

 

ラカンフェティシズム観を捉えるには、まず彼の軸となる思想を学ぶ必要があります。

それが「鏡の段階」という考え方。

生後6ヶ月ごろの幼児は、それまで自他未分だった母との関係が、「想像の鏡」の中に写る自分の像を発見することによって、母から分離される、というもの。

「想像の鏡」というのは、イメージとして世界を捉えるのに必要な領域のことです。

例えば、自分自身のイメージを「想像の鏡」に写して観察すれば、楽しいときには笑顔になり、ムカつく時に口を尖らせることが分かるでしょう。それゆえ、他者に「今、私は楽しい」ということを伝えるために笑い、「今、私はムカついている」と伝えるために口を尖らせるのです。

このように、人は「想像の鏡」に写るものを通じて、自己と世界を結びつけることができるのです。

また、この「想像の鏡」が担うようなイメージの世界を、彼独特の言葉で「想像界([仏]Imaginaire)」といいます。

フロイトのエディプス期における「母のペニス」はこの「想像界」に属すると言えます。

想像上にしか存在しない「母のペニス」を、なにか他の象徴的なもので代用したものが、「フェティッシュ」です。

また、ラカンフェティシズムを、想像界を経由して象徴的対象を選ぶ構造である、と捉えていたようです。

 

ラカンの概念で「ボロメオの結び目」というものがあります。

f:id:shibuotona:20150829023459j:plain

 

これを参考にした上で言い換えれば、フェティシズムは、現実界(言語以前に存在している圧倒的な現実そのもの)→想像界象徴界を特殊な方法で関連づける機構である、と言えます。

 

 

●映画『毛皮のヴィーナス』における2つの「フェティシズム

 

映画『毛皮のヴィーナス』には、大きく2つの「愛」の欲望が存在し、フェティシズム的な構造をとっていると分析できるでしょう。

それは、

 

・ゼヴェリーンから叔母に対する愛

・監督ポランスキーから小説『毛皮を着たヴィーナス』のワンダへの愛

 

後者についてまだ述べていなかったので、最後にそれについて少し書いて、終わりにしようと思います。

ここからの話は私の妄想の域を出ないということを予めご承知下さい。

 

小説上のワンダは、ポランスキー想像界における「欲望」のシニフィアンになっている。

そして、彼の欲望の象徴的な代理は、映画内のワンダなのだ。

それは、ワンダ演じるエマニュエル・セニエが、実際に監督の妻であるという二重構造によってより信憑性を高めます。

この「ワンダ=監督の妻」というメタ構造によって、ゼヴェリーンやトマが監督自身を象徴する人物である、という推測が導き出せるのです。

 

監督のワンダへの愛は、一生叶うことはありません。

だって、ワンダはマゾッホの小説の中にしか存在しないのですから。

 

総じて、この映画は“フェティシストのマゾヒズム的な片思い物語”と言えるかもしれません。

 

 

●最後に

もちろん、この「フェティシズム」の捉え方は全て「精神分析学」に基づいたものなので、それが全てではありません。

今後もフェチ研では様々な観点から「フェチ」について研究していこうと思います!

【告知】フェチ研 vol.1[暗号としてのフェティシズム2、『毛皮のヴィーナス』鑑賞]

悠です。

 

次回のフェチ研(前身・渋家縄会)のお知らせです。

 

ポール=ロラン・アスン著『フェティシズム』のレジュメを発表します。

また、映画『毛皮のヴィーナス』(2013年、ロマン・ポランスキー監督)を鑑賞し、「フェチとはなにか?」を映画体験の中から探りたいと思います。

 

参加希望の方はどなたでもお気軽にお問合わせ下さい。

 

お問合わせ・ご予約はshibunawa@gmail.com

【お名前(ハンドルネーム可)・性別・人数】

をお書き添えのうえご連絡ください。

 

◻︎◻︎以下詳細◻︎◻︎

 

フェチ研 vol.1

テーマ:暗号としてのフェティシズム2、『毛皮のヴィーナス』鑑賞

 

日時:2015年8月22日(土) 

時間:14:00-17:00

場所:渋家地下クヌギ

参加費:500円(予約制)

 

★内容★

 前回に引き続きフェティシズム(ポール=ロラン・アスン著、文庫クセジュ)のレジュメを手引きに、「フェティシズム」という概念を巡る思想史について学ぶ。

 精神分析学上の「フェティシズム」の概念がフロイト以降どのように捉えられているのか、ウィニコットラカンなどの人物を軸に学ぶ。

 また、前回「フェティシズムの美学」において学んだマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』(1871)を原作にした映画『毛皮のヴィーナス』(2013、ロマン・ポランスキー監督)を鑑賞し考察する。

 

☆資料☆

フェティシズムポール=ロラン・アスン 文庫クセジュ(該当頁 p.136-p.149)

映画『毛皮のヴィーナス』ロマン・ポランスキー監督

『性倒錯の構造 フロイト/ラカンの分析理論』 藤田博史 青土社

『毛皮を着たヴィーナス』L・ザッヘル=マゾッホ 訳・種村季弘

 

f:id:shibuotona:20150817032844j:plain

酒鬼薔薇はなぜ反省しないのか―『絶歌』を読んで

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者である酒鬼薔薇聖斗こと少年Aを自称する者が手記『絶歌』を出版した。被害者遺族に許可なく出版されたこと、印税を被害者遺族への賠償にあてると明言されていないこと、著者が本当に事件の加害者である証拠がないことなど、出版の倫理に関して数多くの問題がある。そのことについては多くの記事で触れられているが、内容についての考察はあまり見かけない。ここでは、「なぜ元少年Aの手記からは反省が感じられないのか」をテーマに、私が感じ考えたことをまとめたい。

1 元少年Aの苦悩はありふれたものか
2 少年Aの原罪
3 罰を渇望するマゾヒズム
4 なぜ子供はオナニーしてはいけないのか
5 反社会的な変態は死ぬべきなのか
6 死んだところで謝罪にはならない
7 贖罪のために必要な「自己救済」とは


1 元少年Aの苦悩はありふれたものか
ネット上に挙げられた『絶歌』の内容への批判を見ていると、元少年Aは自己陶酔に浸っているとか、文体が幼稚な虚飾に満ちているとかいった過度なナルシシズムを批判するものが溢れている。しかし、私はそこを批判するのは的外れで、少し冷静さを欠いたことなのではないかと感じている。
たしかに、『絶歌』は文学的な比喩表現が少し過剰で読みにくいところがある。それがまるで自らの文章力をひけらかしているようで不愉快に思う気持ちもわからなくもない。しかし、すべてがすべて元少年Aにとって都合の良いことが書いてあるわけではない。とくに、一般的な人間がけして公に晒したくないデリケートな部分である性的なコンプレックスについては、その説明を避けて自らを語ることは不可避だとしてかなり赤裸々に語られている。それは非常に勇気のいる告白であっただろう。
また、元少年Aは自らを特別な存在だと思い込んでいるが本当は凡庸な人間だ、といった批判にも違和感がある。元少年Aがどこにでもいる人間だと言うような人は、生き物を殺すことでしか性的快楽が満たされないほどの「性的サディズム」を抱えて思春期に悩んできた人間をそんなに周囲で何人も見てきたのだろうか。そうした友人から相談をうけた経験でもあるのだろうか。
たしかに、「性的サディズム」の引き金となった愛する者の死はありふれた苦しみの経験かもしれない。しかし、幼い少年Aがその苦しみとの向き合い方のなかで歪んでいったことは、多くの人にとって理解されがたいことだっただろう。そこからくる孤独感を「凡庸」で片付けていいものか。
さらに、未だに元少年Aは殺人をしたことを誇っているとか自慢しているという批判まであるが、これも勘違いではないかと思う。『絶歌』においては反省や謝罪こそまるで伝わらないが、自らが犯したことへの後悔と、自己否定的な感情はかなり色濃い。むしろそこには、殺人の衝動を持たずに生きることが可能な多くの人への激しい劣等感が感じられる。世間の感想とは裏腹に、元少年Aはナルシスティックどころか、健全な自尊心が欠如した人間のように私には思える。

2 少年Aの原罪

『絶歌』からは謝罪や反省の意思が感じられない、という多くの批判には私は共感する。そう感じさせられる理由は主に二つある。ひとつには、出版の動機が被害者遺族や社会に対する責任を果たすことでなく単なる自己救済を目的とする表現欲求であるということ。ふたつには、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し「わからないが、自分が苦しむことになるのでやめたほうがいい」という回答をしたことだ。
しかし、『絶歌』を読んでいると、なぜ元少年Aが本質的に反省することも、被害者やその遺族の気持ちを汲み取ることも、世間が求める謝罪を形式的に表明することすらもできないのか、その謎をとく鍵は掴めそうな気がする。

少年Aの不運は、思春期の性衝動があろうことか「死」だけでなく、「罪悪感」と結び付いてしまったことにあるのではないだろうか。はじめての精通を経験したときのことについて、元少年Aは手記のなかでは次のように自己分析している。

「僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら精通を経験した。僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。その後も僕は家族の目を盗んでは、祖母の部屋でこの“冒涜の儀式”を繰り返した。祖母の位牌の前に正座し、線香をたてる。祖母との想い出を記憶の冷凍庫からひとつひとつ取り出して解凍し、電気按摩機のスイッチを入れ、振動の強さを最大に設定し、それを切腹さながらにぺニスに突き立てる。“穢らわしいことをしている”という罪悪感で快楽が加速する。」

当時の少年Aは、性的なことへの関心も知識もまったくないまま精通を経験してしまった。だが直感的に、自分がしたことがとんでもなく穢らわしい行為だということを感じ取ったという。また、「罪悪感」という表現に表されるように、それが罪であるということも同時に感じ取っていただろう。

3 罰を渇望するマゾヒズム

少年Aは後年になって精神科医に「射精に激痛が伴う」ということを話したことがあり、医者はそれを「性欲に対する罪悪感の表れ」だと言ったという。元少年Aの性的な快楽と肉体的な痛みとの関係について、手記のなかには他にも興味深い独白がある。

「攻撃性のヴェクトルが他人に向かうか自分に向かうかの違いだけで、“サディズム”と“マゾヒズム”はともに「死の欲動」から分離した一卵性双生児である。つまり“MADなサディスト”は同時に“MADなマゾヒスト”でもある。僕とて例外ではない。祖母の部屋ではじめて射精し、あまりの激痛に失神して以来、僕は“痛み”の虜だった。二回目からは自慰行為の最中に血が出るほど舌を強く噛むようになり、猫殺しが常習化した小学校六年の頃には、母親の使っていたレディースカミソリで手指や太腿や下腹部の皮膚を切った。十二歳そこそこで、僕はもう手の施しようのない性的倒錯者になった。」

この「痛み」は少年Aが罪に耐えるために自らに与えた罰だったのではないかと私は推測する。射精に激痛が伴うことで彼の快楽が成立するように、罪への罰に相当する「痛み」を受けたときに彼は、はじめて満たされるのではないか。少年Aの快楽は罪だけでなく罰までからめとってしまったのではないか。
その、罰となる「痛み」を肉体的にだけでなく精神的にも渇望する様子がわかるのが、手記のなかにある被害者の淳さんへの特別な感情についての記述だ。少年Aは淳さんとかくれんぼをしていて淳さんがAを見つけられずに泣いているのを見たとき、その姿を、木登りをしていたAを心配して泣いたかつての祖母の姿に重ね合わせる。

「自分は受け入れられている。自分が何をしても、しなくても、淳君は自分を好きでいてくれる。だがどういうわけか、僕は、自分が“受け容れられている”ことを受け容れることができなかった。あの時祖母にしたように、淳君のほうへ駆け寄って、淳君を抱きしめることができなかった。穢らわしい自分、醜い自分が許容されることに、嫌悪感さえ感じた。」
「僕は、自分が、自分の罪もろとも受け容れられ、赦されてしまうことが、何よりも怖かった。余りにも強烈な罪悪感に苛まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。僕は罪悪感の中毒者だった。罪悪感は背骨のように僕を支えた。それを抜き取られると僕は、もう立っていられなかった。自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐え難い、自分への“冒涜行為”に他ならなかった。憎まれたい。責められたい。否定されたい。蔑まれたい。ひりつくような罪悪感に身悶えしたい。それだけが“生”を実感させてくれる。」

少年Aは、ありのままの自分をすべて受け容れてくれる優しさゆえに祖母と淳さんを深く愛していながら、その優しさに傷つき、罰せられることを求めている。自らのアンビバレントで矛盾した感情への混乱と性的衝動が相俟って、少年Aは「心の闇」を深めていく。
少年Aの攻撃性は、むしろこの罰を渇望するマゾヒズムを基底にしているのではないかと私は感じた。
精神科医の片田珠美は、こうしたAの倒錯について次のように語る。

「逆説的に聞こえるかもしれないが、罪の意識のほうが犯行より先に存在しており、実際に何か悪いことをして罰を受ければ、精神的な負担が軽くなると感じているような犯罪者がいる。罰を誘発するためにあえて「悪い子」になるわけで子供っぽい。」(週刊文春 平成26年6月25日発行)

少年Aは死刑になることを望んでいた。死刑という罰を受けることへの欲望は、殺人という罪を犯すことへの欲望と表裏一体だったのだろう。もし少年Aが本当にすぐに死刑になっていたならば、物凄い快楽の中で幸福に死んだかもわからない。その上、自らが犯したことへの責任を果たしたことにもなる。
しかしそうはいかなかった。Aはこれからも生きて償い、反省を示し、謝罪をしていかなければならない。

4 なぜ子供がオナニーしてはいけないのか
さて、ここで「なぜ、元少年Aは反省しないのか」に話を戻そう。
小さな子供は親に叱られれば素直に悪いことをやめる。それは自分のしたことが悪いと理解したからではなく、絶対的な存在である親に叱られることが恐いからだ。罪と罰は外部から一方的に与えられるものでしかなく、そこに反省はない。悪いことをしない理由は倫理的なものでなく、そのほうが叱られずに済んで楽だという合理的なものにすぎない。
反省ができるようになるのは、自分のしたことが善いか悪いかを自ら考えることが可能になってからだ。自ら問いかけ、考え、意思を持ち、他者と接することではじめて責任能力を持った個人になったと言える。
元少年Aは、事件から20年近くたって、はじめて精通を経験したときの「冒涜の儀式」について告白し、それを「原罪」「小さな小さな罪の原型」と呼ぶ。おそらくそれは罪の核である。しかし、当時の少年Aは、それが「とんでもなく穢らわしい行為」「罪悪」だと直感的には理解するが、それがなぜ穢らわしい行為で、罪悪であるのかについてはおそらく説明ができなかっただろう。それを冷静に考えて理解する前に、罪悪感にのまれてしまったのだ。
しかし、そのことはさして珍しいことではない。性的対象こそ違うが、日本社会に生きる多くの子供は親に隠れて自慰行為を行うし、それが正しいか間違っているかなど考えずにこそこそとし続ける。
大人と子供との間には、なぜか性にまつわるタブー意識がある。大人は子供が水面下で性的に目覚めていることを知りながら、見てみぬふりをして不自然なまでの建前の純潔を演じることを期待し続けるし、子供はそれを受け入れる。大人もまた自身の性的な部分を子供に対して隠蔽したがる。日本社会において性の扱われ方はそういうものだ。
たいていの人が子供のうちは漠然とした罪悪感を覚えつつ自慰行為や性行為をし、大人になると急にわけもなくそれが許され解放されることになる。自慰行為や性行為が悪から善へと転換するその境目を決めるものは年齢だけだ。そこに問いかけや、考えることや、意思などいらない。
そして、今まで性のこととなるとギクシャクしていた大人たちは、子供が成人すると急に結婚と子育てを前提とした異性との恋愛を求めるようになる。しかし、性から逃れることのできない思春期において、表面的な性教育はあっても、性倫理について聞いたり語ったりする機会など与えられない。日本社会全体が、性倫理において責任能力のある自立した個人に成長することを子供に求めないのだ。
こうして空虚な慣習を守ることでしか近代的な性秩序を保てない日本社会において、少年Aのような特異な性的志向に苦悩する子供が、偏見や差別を恐れず大人を頼ることなどあるはずがない。子供に建前の純潔を無言で要求するような社会に、性的マイノリティの子供がいる可能性など想定できるはずもない。そうした子供を平等な存在として受けとめてくれる世界が、「良識ある大人向け」とされるアンダーグラウンドなコンテンツ(元少年Aの場合、彼が共感するシリアルキラーたちについての情報など)しかなかったとしても、何ら不自然ではない。
おそらく、少年Aが幼い頃から強烈な罪悪感を自覚しながら「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」原因は、多くの子供が自慰行為への罪悪感を自覚しながらなぜそれがいけないのかわからないのと本質的に同じなのではないだろうか。それが罪悪であることは直感的にわかるが、なぜ罪悪なのかは思考停止してしまうのだ。それは、社会が子供たちに対して性倫理について考えさせるどころか、曖昧な性道徳によって抑圧することしかできなかったことのツケとも言えるかもしれない。

5 反社会的な変態は死ぬべきなのか
『少年A矯正2500日全記録』の著者、草薙厚子によれば、更生プロジェクトチームに属する精神科医の女性に恋愛感情を抱くことで少年Aは「性的サディズム」からくる殺人衝動を克服したというが、そのことについて『絶歌』では一言も触れられていない。 妻子がいるという噂もあるが、それもネット上の根拠のない噂にすぎない。淳さんの遺体を損壊するときに射精してから2年後に再び射精したと書かれているが、そのときに彼がどのような性的志向・嗜好を持っていたのかは明らかにされない。
ネット上には、性的欲求に根差した殺人衝動を持つ人間を更生することは最初からできないのではないかという意見が多い。しかし、そう言っている人たちは、もし自分の子供が同じような性的倒錯者になってしまったとき、「更生は不可能だから社会のために死ぬべきだ」とすぐに思える自信があるのだろうか。取り返しのつかないことになる前に自身の志向性と上手く向き合いながら社会の中で生きる場所を見つけてほしいとは思わないのだろうか。もし『絶歌』を読んでもそうした想像ができないとすれば、『絶歌』は本当に何の社会的意義もなかったことになるだろう。
快楽殺人を犯すような人間を生かしてはいけない、元少年Aは「悪魔」や「鬼畜」だから殺すべきだ、というように私刑を煽るような書き込みも大量にある。そういった人たちは、『絶歌』を読んでも元少年Aが「自分が死ぬ覚悟があれば人を殺しても許される」という安易な考えがあったことがわからないのだろうか。「死ね」という単純な世間の憎悪は、罪人の全存在を否定すれば正義が守られるかのように夢見ている。しかし、それは少年Aが陥ったのと同じ誤った認識だ。
健全な自尊心と自己肯定感のない人間は他者に共感することも優しくすることもできない。ましてや、人を傷つけたことを反省し謝ることなどできない。「死ね」というバッシングは、「死ぬこと=償い」で済まされるという考えを甘やかす。
とくに、元少年Aの場合は殺人という罪への欲望と死刑という罰への欲望は表裏一体であることに留意すべきだろう。死刑にすることは、彼に殺人を許すことと同意だ。元少年Aにとって自分の死は、被害者の死と同じ意味を持たない。よって元少年Aは死刑になっても被害者の苦しみを味わうことはないだろう。

6 死んだところで謝罪にはならない

元少年Aは手記のなかで、「どうして人を殺してはけないのか」という問に対し、「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことにるから」と回答し、その苦しみついて次のように語っている。

「何より辛いのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を斬り苛む。」

元少年Aは、これを人を殺したことで経験した苦しみだとしているが、同じような苦しみは犯行前から既に抱えている。それは先に引用した、祖母と淳さんへの想いについての独白からはっきりと読み取ることができる。人を殺しても殺さなくても、元少年Aが罪悪感に苛まれ、他人の優しさに傷つき続けたであろうことは変わらないのだ。これは元少年Aの実存的な苦しみであって、「人を殺してたことによって受ける苦しみ」の説明にはなっていない。そもそも、元少年Aにとっては祖母の部屋での自慰行為も淳さんを殺害したこともほとんど同じレベルの罪悪なのだろう。
元少年Aの他者への認識は、「罪悪を含めて全存在を受け容れられるか」「罪悪があるゆえに全存在を否定されるか」の二択しか想定していない。しかし、彼はどちらにも耐えられない。愛する人に罪悪を許されては生きていけないし、愛する人のいる世界を捨てて自らを殺すこともできない。
このような極限状態に追い詰められてしまうのは、「罪悪は許されないが存在は受け容れられる」という状況を想定できないならだ。元少年Aは、複雑に絡み合った自我と罪悪感とを切り離し、罪悪感を「生きるよすが」とすることをやめなければならない。自己の存在否定こそが求められる罰であり償いであるという考えにいつまでも囚われては、罪悪そのものと向き合うことはできないのではないか。

7 贖罪のために必要な「自己救済」とは

出所後も元少年Aの目の前にいる他者への気がかりは、相手が自分の全存在を受容するか否定するかのどちらに傾くかであり、その関わりが共感からはじまることがほとんどない。元少年Aの共感の対象は専ら直接関わることのない文学作品や漫画の登場人物や歴史上の人物や芸能人だ。性的サディズムに苦しみ、偏見を恐れるまでもなく誰に理解されることも期待せず書物などの情報に逃げ込んだ少年時代と変わらない。徹底的に孤独であろうとする生き方からは、元少年Aが他者に理解され共感されるということをどれだけ諦めているかが伝わる。
彼が他者への共感からコミュニケーションをとり、理解されようという希望をもたない限り、人の痛みや苦しみを自分のこととして感じることも理解できないのではないかと私は思う。そして閉ざされた心を開くものは、他者に存在を受容されるということを越えた、他者から共感され理解されたという実感なのだろう。
しかし、それを掴むにはあまりにも彼は歪みすぎた。
モンスター酒鬼薔薇が本当の「自己救済」を果す日まで、彼の反省と謝罪が私たちに伝わる日もきっと訪れない。



不明

第3回 大人部部会レポ(前編)

悠です。

 

先日、第3回の大人部部会を開催しました。

 

ブログでレポートするのが初めてなので解説しますと、大人部部会は月に一度のペースで部員が集まり「性」について話題を共有する場です。

時事や映画・アートの話、イベントについてや、個人的な性体験まで、かなり赤裸々に語ります。

 

部員は常日頃からSNSツールLINEを通じて「性」についての情報交換をしており、部会ではLINEで話されたことをより深く掘り下げることもあります。

 今回話題になったのは、「男性学」と「男女の性の非対称性」。

 

レポの前半では、話題のもとになったLINEの会話から、いくつか抜粋してみたいと思います。

 

 

渋家大人部LINEより

 

《登場人物》

Y(♀、SM好き、嗜虐フェチゆえの悩みを抱える)

N(♂、映画好き、ステレオタイプな男性像を押し付けられ疲労困憊中)

H(♀、学生、性愛と恋愛の不一致を自覚している)

E(♀、部員)

 

  

2015/05/12(火) 男性Nの憂鬱

 

N:なんか俺って本当、男であることに疲れてるのかもしれない。肉体的な話で。

女性に対する神秘性みたいなものや、逆に嫌悪感みたいなものも自覚してる範囲ではあんまりないんだけど、男に関してはネガティヴな印象が強い。だからフェミニスト名乗ってもいられるんだろうけど。

例えばガテン系バイトをすれば人より目立つし頼られるんだけど、一方でフランクな形での性の会話って男女ともに難しいんだよね、ここ(LINE上)でもない限り。多分肉体的なものが起因してるんだよね。SNS上という言語や文字情報のみの方が解放感を得られるのは肉体から距離を置けてるからだと思う。

 

・・・

 

N:わりと自分が勃起してる時に呪わしい気持ちになったりするんですよね。自分のちんこ全然好きじゃない。でかいのに憧れてる奴に会う度にわりと傷ついてるところはある。

 

Y: そうなんだ。

 

N:ちんこに性という意識が集中しすぎてるからね。本当は身振りや服装から思想まで男性という性は潜んでいるのに、ちんこという異形のものに集中する。理想のちんこなんてものは無いはずなのにどこかで理想のちんこを追い求めてるわけです、無意識的に。だから大きいのに憧れる人もいれば、大きいことがコンプレックスになる人もいる。

 

  

2015/06/08(月) ベクデルテスト、映画表現における男女の非対称性について

 

N :映画における性差を測る上でベクデルテストってのがあるんだけど

1.名前のある女性キャラが2人以上出てくる

2.その女性同士が会話をする

3.会話をしている内容が男の話以外である

ってのがある。

この3点をクリアしてるかどうかを、映画において性差をどう扱ってるかという基準にしてるところもあるみたい。もちろん、これらをクリアしてもジェンダーフルな映画もあるけどね。ちなみにベクデルテストの元ネタは漫画。

 

Y:それで言ったら『NINE』は女性の4ないし5人の名前は特定だけど、男性は2名ぐらいだ

 

N:(元ネタになった漫画の画像、以下漫画内での吹き出し引用)

 

「ねえ映画見ない?」

「んー、まあ良いけど、私映画見る時にルールを決めてるんだよね。

1.名前のある女性キャラが2人以上出てくる

2.その女性同士が会話をする

3.会話をしている内容が男の話以外である

この3つ。」

「変なの。でも面白いね。ちなみにそれを満たしてた映画って何?」

「『エイリアン』。女2人がモンスターの話してんの。」

 

Y:ウケるねwwよりによってエイリアンなのかよww

 

N:ね。

でも確かにそういう必然性のあるシーン考えると、女性の背負う社会的背景をちゃんと作り手が設定出来てないと無理なんだよね。良いギャグ。

 

Y:うんうん。

 

N:例えば学校が舞台で女生徒でそれをやるなら、友達同士でどういう関係性か、そしてその女生徒と友達は、それぞれどんな性格でどんな趣味か、クラス内や学年内や部活内での立ち位置をきちんと考えなきゃいけない。

それで言うとバスケ部、あるいはサッカー部のキャプテンとかエースって記号的だよな。

 

・・・

 

Y:ねえ、単純な疑問なんだけど、映画業界で女性が占める割合ってどんなもんなの?

 

N:割合っていうのは?作り手で関わってる人?

 

Y:えーそうだな、監督の総数に対してとか

 

N:そうだねー。みんな雇用契約結んでるわけではないだろうから難しいけど、俺の体感だと2割には満たないんじゃないかな

 

Y:そかー。ベクドルテストもその数字と無関係ではないだろうね。

 

N:女性の若手監督が取り上げられるようになったのはここ最近の話。

俺がこの間観に行った浜野佐知監督が言ってたけど、最も多く商業作品での長編一般公開作品を持つ日本の女性監督の、本数記録は6本。

 

ベクデルテストは決して無関係ではないね。

言うてハリウッド映画で有色人種が主役の映画はまだまだ少数だし、アカデミー賞の女性監督初の受賞者は『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー。2009年受賞。以前として白人男性優位なのが映画界。ハリウッドのね。

 

Y:映画業界のジェンダー史、まとめてほしい!w

 

N:映画界、こと日本においてはジェンダーとかフェミニズムとか無視してきたからその手のやつはジェンダー研究の方では取り沙汰されるけど映画業界の中の人はほとんど無視してるんだよね。無視してないことないだろうけど、無視に近い扱い。

浜野佐知監督も女性として映画を撮る過酷さを書籍として出してたはず。

海外のフェミニズム映画批評読みたい~。

 

Y:Nさんまとめて~ww

 

N:日本で研究してる人と仲良くなれんかな…斎藤敦子さんとか鷲谷花さんとか…。

 

・・・

 

H:ベクデルテストのはなしおもしろい。

同性と異性以外の話題で喋る、という男性の間では当然のことがなぜか女性の間では映画において表現されないって不思議

 

N:そうそう。実は少ない。

そういえば早稲田大学で幻燈っていう映画以前からあったプロジェクション文化のイベントに行ってきたんだけど、そこで当時の風刺画が素材として上映されてたのが、大学の前で女学生の制服を着た女性の顔が、口だけで出来ているという絵があったんだよね。

どういう意味かというと、女は学校へ通うと口ばっかり達者になるという意味の風刺画だったらしいんだけど、これって「女は黙ってるのがデフォ」みたいな価値観があるからそう見られるんじゃないかって思ったんだよね。

 考えてみたら「寡黙」って言葉とかで指されるのはその多くが男性だよなあ

社会によって定められた性規範によって言葉や文字が奪われてるのではないかと考えると、女性が思想とかに興味を持たなくはなってくるのかなと思った。

 

・・・

 

Y:今がどうとかじゃなくて、「女性への社会的圧力」と「思想業界」との関係性の話ね。

 

N:そうそう。女性脳とか女子力とかそう名指されるものの背景。

女は感情的で理論的ではない、みたいな話とか、そもそも理論的な女性というものを許してこなかった社会が先にあるのでは、という考え。ちなみに、感情的であることと理論的であることは決して両立し得ないものではないので、この指摘自体が理論的ではないことから言っても、俺は支持するに値しないと思っている。

よく感情的な女性を指して、結局女はそういう生き物だって話も出てくるけど、それもまだ社会から課されて自覚・無自覚問わず演じている役割から抜け出ていない可能性をぬぐい切れていないというのが現状だと思ってる。でなければ国家ごとに男女の就労状況が変わるわけがない。

つまり、何故そういう社会が形成されたのかってところにぶち当たるレベルにまでまだ日本は達していない。だからそれを探るためにもフェミニズムはもうちょい勢いがあって良いと思ってる。

 

それとは別に役割を演じていることで生まれる様々な事象には是非を問わず見極めていかなきゃなんないし、多分Yさんが興味あるのはその役割を演じているという現状で起きている事象だよね。

 

Y:そうだね。その中でどうエロスが生成されるのかに興味津々。

(私は)割と社会の「女性はこうあるべき」っていう圧力を回避しつつ生きてきたから、今はその圧力で新しい自己が生まれるのが面白い時期かな。

根本的には「女はこうあるべき」っていう価値観は、「女は」っていう語り口も、「~であるべき」っていう語り口も、どっちも糞食らえだと思ってる。

「女は~だ」も「~すべきだ」も絶対的なものなんてないけど、その相対性が他者との関わりの中で一つの認識で一致したりする瞬間は、感激しちゃったりもするんだけど。

 

N:まあなにかを問わず共感て気持ち良いもんですからね。

社会的圧力の後押しを受けながら、誰かと自分とを分断し、こちら側で共感の中にどっぷり浸かるという瞬間の気持ち良さ。その矛先が弱者に向かっているから今の日本は病的なんだよなー。

そういう連中の中には女性を弱者と名指して良いものか、なんて話はあるけど、そうした発言の端々にそう呼んでしまうことの後ろ暗さや露悪性が潜んでるあたり、スケープゴートにされてるのは否めない。

 

 

2015/06/09(火) 性愛と恋愛、マッチョイズムの姑息さ

 

Y:久しぶりにSMしてもいいかな、って(思える)人と会ってきたんだけど、やっぱり相手の想定してたのは「セックスありきのSM」でしかなかった。説明が足りなかったのかなあ。

仕事じゃないし、自分のしたいこと・したくないことに嘘はつけないし、嘘つくのは不誠実だとも思うから、ありのまま「脱ぎたくない、触られたくない、命令も強制もされたくない、ビンタしたいオナニーみたい」って言ったの。でも相手はそれが信じられないみたいで「え、脱がないの?舐めないの?」って、この問答を繰り返すという。「オナニー見てビンタして興奮する」ことの延長線上がなんで「脱いで舐めて挿れる」ことなんだよ!!ばかやろう!!

しかも最後タク代渡す時に「プレイ代金みたいなもんだよね」って馬鹿野郎、売女じゃねえぞ!!!!

あーなんで「好き」の延長がセックスなんだよーー。

ていうか凄い痛感するのが、「SMが好き。セックスは要らない。」って私は表明していて、あたかもそれを受け入れたフリをするくせに、いざそういう雰囲気になったら「え、まじ?」って顔されるのなんなん。なんなん。

そういう倒錯的嗜好は、ある人にとっては本当に「夢物語」なんだろうな。無い物にされてるんだろうな。

 

N:セックスはしたいけどセックス以外のものを共有できないとセックスも楽しくないよねって人だからわかる。

セックスが最重要みたいなのはつまんないよね。

 

Y:セックスできなきゃ(もしくはセックスが想定されなければ)「好き」とみなせないんだったら、大体好きじゃないわ!

なんか、こういうことがあると、「好きってこうあるべき」の圧力に負けて、自分の中の「好き」の気持ちをなかったことにしたくなっちゃう。けど、そんなことしたって自分の人生がツマんなくなるだけだからしないけど。

ていうか、なんで私が謝ってあっちは謝んないわけ?!性癖が倒錯してるからってなんで私だけが立場弱くなるの?!「残念だわ」とか言われたくないし、こっちのセリフじゃっっ!!

 

N:全くだわ

 

・・・

 

E:セックスってなんだろうね

 

N:セックスっつうかさ、性欲が充足される行為だよね。

セックスって普通挿入行為のことを言うんだろうけど、個人的な基準で言うなら、挿入行為の瞬間そのものは性欲の充足には大して繋がってないし、射精も流れの中で上手くできなければ単なる気持ちの区切りぐらいだなあ。

男でも個体差あるから男同士で話しててもわかんねえんだよな。

というより、セックスがセックス以上の言葉、どの様に行われるかが詳細に語られることは少ないね。挿入と射精があり、それぞれがどの様に行われたかってぐらいのディテールしか語られない。男同士でも。

 

Y:私は割と「挿入・射精に関わらないセックス」の話はするかな。周りに理解者が多いから。

やっぱBDSMの概念が必要だ

 

・・・

 

H:前々から気付いてたけど私、性愛と恋愛を結びつけることがすごい苦手だ。そこでみんなと齟齬が生じてしまう気がする。性愛にまつわるアイデンティティや自尊心の問題には興奮するのだけど……。恋愛というか、性欲と愛を上手く結びつけられない。

 

N:イコールではないよなー

 

H:なんか私の場合それが極端というか、前は純粋に性的対象にする相手は自分の快楽のための道具だと思って人間的な交流求めなかったし、それ以外だとお金とか家とか目的ありきのセックスしかしてない。人として特別好きになって恋愛関係になったらそれに伴ってセックスするのは仕方ないみたいなのはあったけれど。

SMに関しても一方的な欲望をぶつけてくる人が好きで、私と分かり合いたいとか愛し合いたいみたいな感じがする人は縁を切ってきた。

 

N:なるほど。結び付けられないだけでなく、相容れないって感じか。

 

H:彼氏とかもまだ友達でもないのにセフレから恋人に格上げしてはいけない人を格上げしてしまったことで葛藤があったりした。

あるとき私にとっての恋愛と世間での恋愛は決定的に違うと気づいて、それからはある意味世間的な恋愛や性に関するコンプレックスからは自由になれました。

なんかでもここ(大人部のLINEグループ)にいるとみんな性愛関係を基底にした関係の倫理とか幸福について語っている感じがする。

 

N:性愛と性欲ってのは別のものってこと?

 

H:性愛関係は愛の基底にはならないというのが私の感覚。

でも性愛にまつわる自我のあり方についてのやりとりとかは愛の基底になりうる。

 

N:愛の話かなりむずい

 

H:単純に異性愛(タチネコといった役割が規定された同性愛も含む)関係によって結ばれる恋愛というのをそんなに信じてない。それって結局、生殖が関係の中心にあるのでは?と思ってしまう。

 

N:互いの役割にはまろうとすることと互いの関係を形作るものはイコールではないってことかな。

男と女だから愛し合うのではなく、愛の持続のために役割を演じるというか。

 

H:愛の持続のために役割を演じることから解き放たれるときが愛の実現なのかもしれない。

 

E:私もそう思うな

 

N:おお、それ(Hの発言)なんか凄いな。

 

E:ていうかその男、女王様を金やチンコやロジックで支配したいタイプの性癖のヤツでは。

 

N:タクシー代出すのを恩着せがましく言うのとか、恋人同士はもちろん、割り切った関係だったとか、たとえ性嗜好がマイナーじゃなかったとしてもあまりにも野暮でしょ

その手の金とかロジックでマウンティングするやつってなんでこう姑息なのかな。

この手のマッチョイズムとかに裏付けされた姑息さとか卑劣さを、そのまま男らしさとか男だったら仕方ないみたいな言葉で語られるのが、男として耐え難いんだよね。

 

 

 

 

このような会話を前提に、今回の部会は開かれました。

 

それぞれが抱えるジェンダーセクシャリティ、そこから派生する社会との齟齬、他者とのすれ違い。

種々の悩みに突破口はあるのでしょうか。その活路の先に「愛」の実現は可能なのでしょうか。

そんな荒唐無稽にすらみえる疑問について、考えを巡らしました。

 

 

「第3回大人部部会レポ(後半)」へつづく

 

 

【シブマガ】アダルトグッズ研究記 第4回「ゴムゴムの実はエロエロの実」【試し読み】

悠です。

渋家の発行する不定期メールマガジン「シブマガ」にて連載中の『悠さんの渋家大人部〜アダルトグッズ研究記〜』。
先日発行されたシブマガ vol.6に第4回「ゴムゴムの実はエロエロの実」を寄稿しました。
 

https://gallery.mailchimp.com/25e7421c21bd64eb2dfb80718/images/e1782d02-0552-46de-a2a4-125a54057a56.jpg

 
以下本文から冒頭のみを転載しました。
全文はシブマガを登録をしてご覧ください!
 
 

『悠さんの渋家大人部〜アダルトグッズ研究記〜』

第4回 「ゴムゴムの実はエロエロの実」  
 
こんにちむらむら!こんにちんちん!あ、こんにちわ!悠レイカです!
 
f:id:shibuotona:20150603192918j:image
 
 
[カルチャー/アダルト/渋谷]がキーワードのアダルトグッズ研究企画、4回目は“コンドーム”について書いていきますよ!
 
【ゴムゴムの歴史】
 
コンドーム通称「ゴム」「スキン」。私たちのセックスライフに欠かせないアイテムです。
 
避妊の手段が確立されていない時代、セックスにおいて「快楽」と「生殖」とは分ちがたく結びついていました。
 
今日のセックスがこれほどまでに多様化したのは、「快楽」が「生殖」から切り離され純粋培養された結果だと言っても過言ではないでしょう。その恩恵を授かっている我々ですが、コンドームの果たした成果は数えきれません。
  
そもそもコンドームはいつから今のかたちなのでしょうか?
 
コンドームの原材料であるゴムやポリウレタンが開発されたのは19世紀以降で、それ以前は動物の腸や膀胱、魚の浮き袋などを男性器に被せて避妊していました。(また、その方法の起源は紀元前3000年のエジプトにまで遡れるといいます。)
 
名称の由来になったのは、17世紀イングランド王チャールズ2世の殿医ドクター・コンドーム。好色家の王様のため牛の腸膜を利用した避妊具をこしらえたとか。
 
ゴム精製技術が確立された19世紀以降、日本においては1909年に初のゴム製コンドームが導入されました。
 
現行のシームレス(継ぎ目の無い)タイプがポーランドで特許を得たのが1912年、ラテックス素材のコンドームの出現は1934年で、ラテックスアレルギー向けのポリウレタン製コンドームが日本で発売されたのは1998年。(「ゴム」という通称がありますが、ポリウレタン製のものは材料的には「ゴム」ではありません。)
 
現在の世界シェアにおいて、日本は上位5位にランクインするほどのコンドーム大国
 
…(続く)

 

全文はこちらからメルマガ登録してご覧ください。

 
 f:id:shibuotona:20150604035341j:plain

渋家が送るメールマガジン

テレビやWebでは語られないストーリー、いよいよ雑誌に。

登録無料、不定期配信。